八角神社(おやすみさま)と私の家族史と

昨年の秋ごろに引っ越しをしまして、隣町から自分の生まれ育った町、会津若松市に戻ってきました。年明け早々、とても個人的な話ではあるのですが、生まれた土地の神々とのご縁というのを感ぜずにはいられない出来事があったので、忘備録的に記しておきます。今年の元旦のことです。0時過ぎの年明け早々、若松市内に住むのは初な夫氏もいるし、せっかくだから、いろいろ地元の寺社仏閣を初詣でしようということになり、深夜の散歩に向かいました。今住んでる場所の氏神様、田中稲荷神社、神明神社、鶴ヶ城(元旦に行くと焼き印の入った杓文字もらえる)と色々回りまして、それで最後、家に帰る道すがらもう一社寄ろうと、八角神社に寄ったのでした。八角というと、多分市外の人は「はっかく」と読んでしまうと思うのですが、「やすみ」と読みます。そして私たちは、八角神社を「おやすみ様」と呼んでいます。 到着したのが深夜2時過ぎ、さすがに境内に人も居らず、境内は静まり返っており、さっとお参りして帰ろうと思ったのですが、お賽銭箱の前に「先日、不思議なことがありました~」と書かれた謎の張り紙がありまして、つい立ち止まってしまいました。どうやら、神社の境内で心霊?神霊現象があり、それを収めた動画がYoutubeに載っているというような内容で、ムーとかオカルト大好きな夫氏が食いついておりまして。すると、拝殿の中から宮司さんが、スッと現れまして「よければ、中にお上りください」と声を掛けられたのでした。夫氏は帰ろうとしていたのですが、このタイミングでお声がけいただいたことに、何かご縁みたいなものを感じたので、お言葉に甘えさせていただき、拝殿の中に入れていただきました。 宮司さんに八角神社の歴史や不思議なお話、神霊現象の動画も見せていただきまして、宮司さんの不思議体験などもたくさん聞かせていただきました。境内で神様の悪口言った人や不敬を働いた人が怪我したり、亡くなったりした話も聞きまして、実際に神様への不敬はこういう形で影響出るんだな…と思ったのと、あと、おやすみ様現役つよつよじゃん!と改めて思ったというね、本当はご祭神どなたなんだろう、、。(公式では伊弉諾尊・伊弉冉尊の2柱なのですが)とても興味深く、結果、深夜にも関わらず長々とお話し聞かせていただいてしまいました。宮司さんは元々米沢の神社の方で、ご縁あっておやすみ様も兼任してくださっているそうです。宮司さん、とても神様を大切にされている印象で、戊辰や過去の火災などで、詳しい歴史があまり残っていない八角神社の歴史をまとめたいと思っていらっしゃるそう。以前、私も八角神社のことを少し調べたことがあって、とても古い神社で、昔は大きな神社だったようなのですが、詳しく分からないのですよね。長い歴史の流れでいろんなことが変わってしまったことは想像に難しくありません。また飲み屋街の近くにあることや、近年は近所で事件などもあったり、少し荒れているのかな?という印象もありましたが(実際にお参りすると好きだな、良い神社だなと思うのですが)、良い宮司さんに来ていただいていたのを知れて良かったなと思いました。 さて、何故おやすみ様のことをこんな風に書いているのかということなのですが、元旦の上記のちょっとした出来事を切っ掛けに、やはり、おやすみ様は自分にとって縁深い神様だなと、改めて感じたからなのです。ちょっとその辺を綴っていこうと思います。 八角神社から私の実家の位置というのは、距離的には氏子と言うには少し離れてはいるのですが、七五三、成人式と人生の節目節目では、おやすみ様にお参りして写真を撮るというのが恒例行事になっておりまして、また、小さい頃は祖母や父に連れられて毎年、おやすみ様の夏のお祭りに出かけて行ったりと、家族にとってとても思い出深い神社なのでありました。我が家が折々に、おやすみ様に通っていたのにも、実は理由があります。父が20代のころまでは、実家は今の場所ではなく、おやすみ様のすぐ傍にあり(今は雑居ビルになってますが)、元々は、おやすみ様の氏子だったのでした。おやすみ様が今より大きかった頃は、昔の家が建っていた場所は、おやすみ様の境内だったような所でした。我が家の井戸からは良い水が出たそうで(八角神社のお水なので所謂、宮水みたいなものでしょうか)そこから汲んだお水で某酒造さんがお酒を造っていたというのを聞かされておりました。八角神社の摂社に酒造りの神様である松尾社があるのも、そういったことが関係しているのかなとも思っています。 ↑実家にあった八角神社の前で撮られた写真。前列一番右が祖父。 そして更には、我が家の高祖母(祖父の祖母)は、舟石峠(滝沢峠)という、峠で茶屋を営んでいたのですが、舟石峠とは、八角神社の神様が乗ってきたという伝説の舟形の巨石の御座します峠で、その巨石の少し上の方に茶屋はあったのでした。滝澤嶺 岩越鉄道名勝案内誌(明治35年)国立国会図書館 デジタルコレクションその茶屋には、祖父が生まれるまで、曾祖父と曾祖母、そして高祖母は住んでおり、そこから偶々だと思うのですが、八角神社近く(舟石峠→旧:槻木町→旧:上六日町)に引っ越してきたのでした。また祖父だけでなく、祖母の実家も八角神社のそばにありまして、数世代前から八角神社とはご縁があったわけです。小さいころから、それを聞かされて育ってきたので、おやすみ様の存在というのは当たり前すぎて改めて深く考えることなく。大人になってからは、町中で呑んで実家まで帰る道すがら、通りかかったらお参りする程度になってしまっていました。 それが今回のことで、新年早々ハッとしたといいますか、中に上げさせてもらったのも、私が勝手にそう思ってるだけですけども、おやすみ様から「お帰り」と言われているように感じてしまったのですよね。色んな神社に行って、ブログで記事も書いたりもしましたが、今後はおやすみ様の記事を書かなくてはとも思った次第。できる限り歴史のことなども調べられたらいいな。 とはいえ、今回書けるのはごくごく個人的な自分史の確認の話で、人様が読んで楽しいわけないなと思って、今日まで途中まで書いたものを取り合えず下書き保存していたのですが、先日、会社で同僚たちが雑談しているところを通りかかったら、「八角神社」の話をしており…「私たちは、おやすみ様と呼んでいて~」というのが聞こえてきて、ブログに書こうとしてる一文と全く一緒だったもので、催促されているような気になって、これを最後までまとめ直したのでした。 八角神社 明治神社誌料:府県郷社 国立国会図書館デジタルコレクション八角神社 会津繁昌記  国立国会図書館デジタルコレクション郷社八角神社 若松郷土誌 国立国会図書館デジタルコレクション

実写版「岸辺露伴は動かない」のルーヴルに行くやつ(記事後半に少しネタバレ的な要素あります)

ちょっと今日は語らせてください。ええ、実写版の岸辺露伴について。 荒木飛呂彦氏の「ジョジョの奇妙な冒険」の4部の登場人物である岸辺露伴を主人公にしたスピンオフシリーズ「岸辺露伴は動かない」の実写版が、高橋一生氏を露伴役に迎えて2020年の年末にNHKで放送されたことは知る人も多く、昨日の事のようです。ここ毎冬は岸辺露伴、今年もやるかなぁと楽しみの一つになっておりました。昨年末のドラマ終了後に映画化のお知らせがあってから、ずーっと楽しみにしていた実写版の露伴先生の映画、「岸辺露伴ルーヴルへ行く」を先日観に行ってきました。 実は、わたくし岸辺露伴~は実写版から入りまして。ジョジョは、うちの夫氏が好きで、たまにアマプラでアニメを流していたので少し見たことがあるぐらいでしたが(1部少女漫画も吃驚な陰湿ないじめを主人公がいきなり受けるじゃん…という感想と、4部なんでSavageGarden?という感想でした…もちろん面白かったです)ジョジョのスピンオフが実写化されるというアナウンスを夫氏とCMかなんかで見て、キャラクターの再現度高いと夫が言っていたので、どんな感じでしょうと夫婦で見た第一期の放送でその世界観に鷲掴みにされて、はまってしまいました。そしてコミックスも購入してしまいまして、夫氏のジョジョリオンの隣にそっと並べております。笑 人気のある原作の実写化なので、色眼鏡ない状態で観れたのも、ここまでハマれた要因なのかもしれないですが、何がそんなに好きなのかと言ったら、やはりあの唯一無二の”世界観”でしょうか。<岸辺露伴>という象徴的な存在を、安易に原作そのまま映像にするのではなく、原作のぶれない部分はしっかり残しつつ、こんな”露伴”がいる世界軸もあるよなという形で、提示していただいているような。もちろん「奇妙さ」はあるのですが、現実から大きくはみ出していない世界観なので、すんなり受け止めることができるような作りになっていて。手間暇かけた愛ある二次創作とでも言いましょうか。そういうところが好きですね。何より、すぐそばにある怪異、非日常、ファンタジー、奇妙な世界がとてもよく描かれていますよね。もちろん現実にはあり得ない世界なのですけど、でも何故かあの坂のあの角曲がったら自分の知ってる町なんじゃないか?実際にどこかにある世界・出来事なのじゃないか?と思わせてしまうような不思議な作品です。そしてキャラクターもストーリーも個性的で一癖も二癖もあるのに、どこか静か…というか余白のある空気感なのも引き込まれてしまうのです。また、そんな世界観を彩る、有形文化財である加地邸をはじめとするロケ地やセットの緻密さ、美しさも本当に素晴らしいです。菊地成孔氏&新音楽制作工房のテーマ音楽や、柘植伊佐夫氏の人物デザイン・衣装なども本当に美しくて~~!展示されている本物の衣装見たけど、映像では分からないような細かい意匠がすごかったです。 ドラマ版の特にお気に入りの回は1期の第2話「くしゃがら」。いや~~奇妙でめちゃくちゃいいですよね。森山未來の演じる漫画家・志士十五の怪演が素晴らしくて何度も見返してしまいます。特にカフェでの一生さんとのテンポの良い二人の掛け合いは、自然と口元がにやりとしてしまう、めちゃくちゃ良。あとは「後ろの正面」の乙雅三にいきり倒す露伴先生や、「ジャンケン小僧」のガキを負かして最高の顔してる露伴先生がとても良いです。 また原作では「富豪村」にしか出てこない、担当編集の泉京香が全編通して、露伴先生とのバディ役として存在してくれているのが最高です。泉くん役の飯豊まりえちゃん可愛いいし、スタイル抜群で、あのお衣装着こなしているのがすごい。回を重ねるごとに、泉くんの怪異への当たりやすさと、しかし怪異に全く魅入られることのない「光属性」の強さが発現していて、しかも露伴先生もそれに一目置いているというのがね、良いよね。それにあの露伴先生と十五先生の担当をしているというのも冷静に考えてすごくないですか。敏腕すぎるでしょう。2022年のJOJOmagazineに掲載された「ホットサマーマーサ」で原作に再び泉くんが出てきた時には、本当に嬉しかったな。(その後ドラマ化もされたホットサマー~、大好きなお話です。)露伴先生と泉くんのバディ感もとても良くて、どこまでいっても変わらない関係性、安易に二人の間に恋愛的な要素がないのがまた好いのですが、渡辺監督のインタビューで、露伴は泉くんを自分と異質なものと見ていて、ある意味局面局面ではイメージの基になるようなミューズ的な存在と思っているのではというのがあって、全俺は泣いた、ありがとう。 さてそんな実写版露伴先生の映画を観に、全身黒ずくめで映画館に行ってきました。念願ッ…。というのも、「この世で最も黒い絵」というのが「岸辺露伴ルーヴルに行く」のストーリーの鍵となっているからね、もう黒でね、年甲斐もなく夫氏と二人で黒ずくめで行きましたよ。タイトルの通り、露伴先生がとあることから、パリのルーヴル美術館に取材に行くというストーリーなので、もちろんパリ、ルーヴル美術館の中でお話が展開していくわけなのですが、むしろストーリーでの重要な日本のシーンがとても良くて。原作も読んでてストーリーも知っているから泣くことはないだろうと思っていたのですが、後半の解像度の高さに泣いてしまいました。またなんと、過去パートで青年露伴が過ごす祖母の家が地元会津の旅館(我が母校の学区内でございます)でというのを鑑賞前に知り、うわ嬉しい~~~、確かにあのシーンにぴったりと思っていたのですが、その他の日本でのシーンもふんだんに見慣れた会津の土地が出ており、とんでもなくびっくりしたのですが、あのお話のロケ地が会津なのは個人的にとてもぴったり来るというか、製作陣は特に意図していないと思うのですが、会津は良くも悪くも過去に縛られた土地ですし、なんか妙にマッチするんですよね。あのストーリーに。 ここから少し少しネタバレ含むかもしれませんが、今回の映画を見ていて私が一番感じたことは、血の「因縁」というものについて、なのですよね。そういうのって、実際にあるよなあと思う日々でしたので、刺さるというか考えてしまうというか。自分の罪ではない、抗うことのできないもの、自分の選択ではないのに「血」によって受け継いでしまうものって、この世の中にはあると思うんですよ。それってとてもとても不条理なのですけど。できればそれを排除して、因縁の及ばぬところで、今の自分の個として生きていきたいと思うのですが、排除するのではなく、敢えてそれを受け入れていく、引き受けて終わらせていくという選択もあると思うのですよね。なぜなら血の因縁から生み出された現在と、私だから。なので、奈々瀬と対峙した現在の露伴先生の言葉がとても胸に響きました。 現時点で2度ほど映画館に足を運んでおりますが、あと何回か観たいですね。もちろん映像やストーリーも素晴らしいというのが一番の理由ですが、ひっくるめてなんかあの世界にずっと居たいんですよ、私は。

幻想を、ひろいあげ、かたちにしていく

3月に書いていた記事をタイミング逃してそのまま下書きフォルダに入れていたのですが、成仏させるために(笑)このタイミングで加筆修正して公開します。 3月の誕生月に、出張で都内に約1週間ほど滞在しており、その機会を使って、仕事終わりに、某先生に占星術で個人鑑定をお願いして、濃厚なお話が聞けたのと、別な先生の12星座の講座で魚座の回を聴講したことにより、改めて己の特性<魚座的なもの>を深く認識することとなりました。それにより、自分の特性をもっとうまく活かしていきたいと思うようになりまして、そのあたりのことを、魚座のことと絡めて取り留めもなく綴ってみたいと思います。 …サテ、太陽・月・水星・MC魚座という魚座剛の者である私なのですが(笑)、みなさんの魚座のイメージってどんなものですか?夢想家、不思議ちゃん、現実離れしているというようなイメージで語られることが多いように思います。それは守護星が幻想や酩酊の星である海王星だということからも想像しやすいですが、魚座の象徴は読んで字の如く「魚」であり、足がなく、尾びれを使って水中を自由に泳ぐ姿からは、大地との繋がりは希薄なように感じられることなどからも、現実離れしているというような連想ができるのではないでしょうか。 しかし、12星座と人体の各部位との対応を見ていった時に、魚座の対応する部位は、実は<脚>になります。脚というのは、大地・現実世界と接続する大切なパーツです。魚には脚がないのに、脚がキーになるのです。占いサイトなどで脚がウィークポイントとかチャームポイントとかそういった感じで書かれているものはよく見ますが、より深く人体との各星座の対応を見ていくと、一つの星座に対する解釈と理解に広がりが生まれるように思います。 前述したように魚座は夢想家、不思議ちゃん…というのは、我々の社会の中で生きていくのにはどちらかというとネガティブな意味合いの言葉だと思います。魚座が現実でないところを見ているという、地に足ついていないというのは、多かれ少なかれ間違いないでしょう。しかし、魚座が現実世界からまるきり切り離されたところにいるかというと、人体の部位で<脚>に対応しているということなどからも、それはそれで違うように思います。 もう少し自分の感覚で語るのであれば、魚座は、ごくごく世俗的な現実の生活を営みながらも、そこからとてもかけ離れているようなファンタジーの大海の中を即座にどこまでも泳いで行けるというようなイメージ。<肉と霊の二足の草鞋>というような感じでしょうか。なので、大地に接続する脚を通して、夢の世界を現実に降ろす=具現化するということが、魚座にとってとても意義深いことなのではないかと思っています。 しかし、その具現化は、やはり魚座なのでお堅いやり方といいますか、世界のルールみたいなのからは逸脱している方が魚座らしい気がします。この社会に役立つ方法でとか、万人にわかりやすいように…とか。そういうのを考えたりすると途端に面白みに欠けるのではと。それがなくても社会の機能は回っていく、無駄で意味のないものだと思われるようなもの、いわゆる音楽やアートなどを通してだとか。 ファンタジーの世界、目に見えないものから得たものを、何か遊びのようなものとしてこの世に顕現させたいと思うのと同時に、けれども、かと言って、それらをこの世界の枠組みの中に納まるような形に降ろしてきたくはないという、天邪鬼的な思いのようなものが、私の中に常にあります。夢は夢だから美しい、夢を夢として楽しもうじゃぁないか。<あちら>にこちらの都合で名前をつけたくないというような。夢を遊ぶ心がないと、粋じゃないと思っている節があるので、どうやってその見えない世界を顕現させるのかというのは、まだ答えが出ておりません。 此岸にいて彼岸を見ている。もしくは彼岸にいて此岸を見ているような、【あはひ】とか【余白】の感覚。こういう、余白のようなものが魚座的ではないかなとも思ったりします。私の場合は、占星術で魚座以外の部分を見ても、どうしても<あはひ>的な要素が多いので、通常より多くそう思ってしまうのかもしれません。…しかし!です、魚座に「ふらふらしてないで地に足着けて生きた方がいい」と言ってしまうのは、とてもごもっともなのですが、上記のような性質から推測するに、魚座の特性を殺しかねないのでは?とも思っています。若いころは「もっと地に足着けて生きるように、」と他人から言われて、それがうまくできなくて、ほんの一寸悩んだりもしました。(ほんの一寸なのがポイントですよ)でも、夢を見ない魚座、<あはひ>でない魚座ってどうなのよと思うのであります。余白のない世界の味気のなさよ。 また、優しいや繊細で語られる魚座ですが、荒々しい海の一面、怒れるポセイドン、津波などのイメージからも、海が豊かで穏やかなだけのものでないことはイメージできますよね。自分の感覚としても、魚座の私は決して優しくない、意外と好き嫌いが多いし、外には見せなくても心の海は荒れ狂っていることがあります。笑海のようにすべてを許容する一方で、自分の染まりやすさを良く知っているからこそ、敢えて嫌いなものは徹底的に線を引くという一面もあります。(嫌いなものにも影響されたり、好きになるまではいかなくても慣れてきて嫌いじゃないかもと思い始める可能性があるので) そして魚座といえば、眠りというようなことも聴講した講座では言及されてましたが、魚座=眠り、夢は、実感深く。眠りが私の人生をいかに豊かにしれくれたかということは、語っても語り尽くせないぐらいです。単に眠るのが好きなだけでなく小さい頃の記憶は現実の出来事より、夢で見た美しい景色や薄暗く恐ろしい景色の印象の方が色だけでなく音や感覚を伴って鮮やかです。そしてその夢を日記にしたためたり、時にそれを元に物語を作ったり、絵に起こしてみたりなどして遊んでいました。未だに、不思議な夢見たりするとブログやSNSに書き綴ったりもしていますね。 「夢見」や「想像する力」、というのをもっと楽しんでもいいのでは?というのを、最近ようやく思えるようになってきました。大げさに言いたくないのですが、所謂、霊感、霊能みたいなものに分類されるものも含め。見えたものを無理やりに審神者するのでなく、予言や予知では決してなく、トランス状態になって見たもの聞いたもの得たものを表現するというのは面白い試みだと思うのです。審神者せずに…と上で言いましたが、ファンタジーとして楽しむ分には、見えたものに自己流の意味づけをするのも良いでしょう、楽しむ分には。(強調) 私も夢見やイマジネーションの力をずっと無い物として過ごしてきたけど、これからは夢や白昼夢(寝てないときに見るイメージ)で見えた景色や物語を素直に表現していきたいなあと、このところ思うのです。魚座に具現化を表す土星が入ったからか、何か目に見えないものを形にしたいという気持ちが出てきたのです。 この特性を、これからの10年どう活かしていけばいいのか。また模索の日々でございます。