寺社仏閣・史跡
寺社仏閣・史跡

八角神社(おやすみさま)と私の家族史と

昨年の秋ごろに引っ越しをしまして、隣町から自分の生まれ育った町、会津若松市に戻ってきました。年明け早々、とても個人的な話ではあるのですが、生まれた土地の神々とのご縁というのを感ぜずにはいられない出来事があったので、忘備録的に記しておきます。今年の元旦のことです。0時過ぎの年明け早々、若松市内に住むのは初な夫氏もいるし、せっかくだから、いろいろ地元の寺社仏閣を初詣でしようということになり、深夜の散歩に向かいました。今住んでる場所の氏神様、田中稲荷神社、神明神社、鶴ヶ城(元旦に行くと焼き印の入った杓文字もらえる)と色々回りまして、それで最後、家に帰る道すがらもう一社寄ろうと、八角神社に寄ったのでした。八角というと、多分市外の人は「はっかく」と読んでしまうと思うのですが、「やすみ」と読みます。そして私たちは、八角神社を「おやすみ様」と呼んでいます。 到着したのが深夜2時過ぎ、さすがに境内に人も居らず、境内は静まり返っており、さっとお参りして帰ろうと思ったのですが、お賽銭箱の前に「先日、不思議なことがありました~」と書かれた謎の張り紙がありまして、つい立ち止まってしまいました。どうやら、神社の境内で心霊?神霊現象があり、それを収めた動画がYoutubeに載っているというような内容で、ムーとかオカルト大好きな夫氏が食いついておりまして。すると、拝殿の中から宮司さんが、スッと現れまして「よければ、中にお上りください」と声を掛けられたのでした。夫氏は帰ろうとしていたのですが、このタイミングでお声がけいただいたことに、何かご縁みたいなものを感じたので、お言葉に甘えさせていただき、拝殿の中に入れていただきました。 宮司さんに八角神社の歴史や不思議なお話、神霊現象の動画も見せていただきまして、宮司さんの不思議体験などもたくさん聞かせていただきました。境内で神様の悪口言った人や不敬を働いた人が怪我したり、亡くなったりした話も聞きまして、実際に神様への不敬はこういう形で影響出るんだな…と思ったのと、あと、おやすみ様現役つよつよじゃん!と改めて思ったというね、本当はご祭神どなたなんだろう、、。(公式では伊弉諾尊・伊弉冉尊の2柱なのですが)とても興味深く、結果、深夜にも関わらず長々とお話し聞かせていただいてしまいました。宮司さんは元々米沢の神社の方で、ご縁あっておやすみ様も兼任してくださっているそうです。宮司さん、とても神様を大切にされている印象で、戊辰や過去の火災などで、詳しい歴史があまり残っていない八角神社の歴史をまとめたいと思っていらっしゃるそう。以前、私も八角神社のことを少し調べたことがあって、とても古い神社で、昔は大きな神社だったようなのですが、詳しく分からないのですよね。長い歴史の流れでいろんなことが変わってしまったことは想像に難しくありません。また飲み屋街の近くにあることや、近年は近所で事件などもあったり、少し荒れているのかな?という印象もありましたが(実際にお参りすると好きだな、良い神社だなと思うのですが)、良い宮司さんに来ていただいていたのを知れて良かったなと思いました。 さて、何故おやすみ様のことをこんな風に書いているのかということなのですが、元旦の上記のちょっとした出来事を切っ掛けに、やはり、おやすみ様は自分にとって縁深い神様だなと、改めて感じたからなのです。ちょっとその辺を綴っていこうと思います。 八角神社から私の実家の位置というのは、距離的には氏子と言うには少し離れてはいるのですが、七五三、成人式と人生の節目節目では、おやすみ様にお参りして写真を撮るというのが恒例行事になっておりまして、また、小さい頃は祖母や父に連れられて毎年、おやすみ様の夏のお祭りに出かけて行ったりと、家族にとってとても思い出深い神社なのでありました。我が家が折々に、おやすみ様に通っていたのにも、実は理由があります。父が20代のころまでは、実家は今の場所ではなく、おやすみ様のすぐ傍にあり(今は雑居ビルになってますが)、元々は、おやすみ様の氏子だったのでした。おやすみ様が今より大きかった頃は、昔の家が建っていた場所は、おやすみ様の境内だったような所でした。我が家の井戸からは良い水が出たそうで(八角神社のお水なので所謂、宮水みたいなものでしょうか)そこから汲んだお水で某酒造さんがお酒を造っていたというのを聞かされておりました。八角神社の摂社に酒造りの神様である松尾社があるのも、そういったことが関係しているのかなとも思っています。 ↑実家にあった八角神社の前で撮られた写真。前列一番右が祖父。 そして更には、我が家の高祖母(祖父の祖母)は、舟石峠(滝沢峠)という、峠で茶屋を営んでいたのですが、舟石峠とは、八角神社の神様が乗ってきたという伝説の舟形の巨石の御座します峠で、その巨石の少し上の方に茶屋はあったのでした。滝澤嶺 岩越鉄道名勝案内誌(明治35年)国立国会図書館 デジタルコレクションその茶屋には、祖父が生まれるまで、曾祖父と曾祖母、そして高祖母は住んでおり、そこから偶々だと思うのですが、八角神社近く(舟石峠→旧:槻木町→旧:上六日町)に引っ越してきたのでした。また祖父だけでなく、祖母の実家も八角神社のそばにありまして、数世代前から八角神社とはご縁があったわけです。小さいころから、それを聞かされて育ってきたので、おやすみ様の存在というのは当たり前すぎて改めて深く考えることなく。大人になってからは、町中で呑んで実家まで帰る道すがら、通りかかったらお参りする程度になってしまっていました。 それが今回のことで、新年早々ハッとしたといいますか、中に上げさせてもらったのも、私が勝手にそう思ってるだけですけども、おやすみ様から「お帰り」と言われているように感じてしまったのですよね。色んな神社に行って、ブログで記事も書いたりもしましたが、今後はおやすみ様の記事を書かなくてはとも思った次第。できる限り歴史のことなども調べられたらいいな。 とはいえ、今回書けるのはごくごく個人的な自分史の確認の話で、人様が読んで楽しいわけないなと思って、今日まで途中まで書いたものを取り合えず下書き保存していたのですが、先日、会社で同僚たちが雑談しているところを通りかかったら、「八角神社」の話をしており…「私たちは、おやすみ様と呼んでいて~」というのが聞こえてきて、ブログに書こうとしてる一文と全く一緒だったもので、催促されているような気になって、これを最後までまとめ直したのでした。 八角神社 明治神社誌料:府県郷社 国立国会図書館デジタルコレクション八角神社 会津繁昌記  国立国会図書館デジタルコレクション郷社八角神社 若松郷土誌 国立国会図書館デジタルコレクション

秘めたる祈りは熱く、鋼のごとく

春は庄内に行きたくなる。 …のかわからないですけど、 意図せず先日、去年と同じ時期に山形は庄内地方へふらりと行ってきました。その前に行った時も春だったな。去年は鳥海山近辺をぐるぐる回って、丸池様とか釜磯の湧水見たり、秋田側まで足を延ばして、元滝見たりして、、とにかく虜になってしまったのでした。奈良や糸魚川に恋に落ちたのと一緒の感覚ですね。ご飯もおいしかった。庄内スキ♡ 鳥海山・出羽三山スキ♡ 庄内の自然のエナジー最高♡その土地その土地のエネルギーってありますが、肌になじむ感じ?なんて言ったらいいのか、お懐かしうございますぅ、みたいな感じです。(更に謎) そして先日のこと、行きたいな~と思いつつ、1年ぶりの庄内。来たはいいけど、月山も湯殿山も本宮まで雪で行けないだろうしなーと思って、なんとなく湯殿山の瀧水寺大日坊に訪れてみました。 500円の拝観料で簡単なお祓い(若めの方がしてくださいました)と、大日坊の歴史を高齢のお坊さんが説明してくれたんだけども、お話し前のご祈祷が最高にすっきりしたのよ。「六根清浄~」の独特のリズムと大きな梵天をパッパッと振ってもらったら頭がスーッとしていって。テレビとかで修験の方が「懴悔(さんげ)懴悔(さんげ)六根清浄~」って唱えながらお山を駆けているの見るとなんか知らんけどあのリズムにウルっときちゃうので、たぶんその感覚なんですけど。 高齢のお坊さんによる大日坊の歴史のお話は、ちょっと偏ってる部分あるなー、商売っ気あるなー(笑)と、思うところはあったものの、講談聞いているみたいですごく面白かったです。羽黒山の出羽三山神社では出羽三山は崇峻天皇の皇子である蜂子王子が開山としていますが、大日坊は大同2年に空海が開いたと言われているそうで羽黒山側と湯殿山側で見解が違うのも面白いです。 明治の神仏分離・廃仏毀釈で、羽黒山などが神社に変わった中でも、ここはお寺であることを変えず、かなり大変な目にあったようで、そしてお坊さんの口ぶりから、どうも羽黒山と確執があるような雰囲気を感じました。それと明治政府への恨みたいなのを感じて、あれ?これこの感じ良く知ってるな、なんだっけ、常日ごろ味わってるやつ… そうそう…地元会津と一緒じゃん! って思ったけど、そもそも庄内は戊辰戦争で会津同様に旧幕側の急先鋒(会庄同盟っての組んでましたわ)で、その根底にある気骨のようなものは、似てるんだなと気づきました。庄内って勝手ですけど自然が雄大なだけにおおらかなイメージがありましたが、奥に反骨精神のような鋭い熱意のようなものがあるのだと感じてびっくりしたのでした。 こちらのお寺、真如海上人という方の即身仏もいらっしゃいます。即身仏に対してあまりいいイメージがなかったのですが、即身仏の説明や神仏分離で大変だった話とか色々聞いていたら、庄内のどういった歴史や風土から、即身仏が生まれたのだろうと妙に興味がわいてきて、帰ってからネットとか文献読み漁って色々調べてしまいました。 以下、ながーくなりますが、お付き合いください。笑 出羽三山は今は月山・羽黒山・湯殿山ですが、その昔は、湯殿山は含まれなかったようで、(中世頃までは鳥海山・月山・葉山のことを三山と言ったという説もあり)湯殿山は山のことではなく、現在湯殿山神社のご神体となっている巨岩のことを言ったそうで、湯殿山は出羽三山それぞれの「総奥の院」とされたそうです。湯殿山麓には別当寺として湯殿山派4ヶ寺(注連寺、大日坊、大日寺、本道寺)というのが存在していて、4ヶ寺の宗派は江戸時代の寛永中期(1624-1644)ごろには真言宗の影響が濃くなっていったそうです。 湯殿山4ヶ寺で活動した人々は、およそ三種類に分けられるようです。 清僧(正式な僧侶)修験者一世行人 この中でも湯殿山を中心に活躍した一世行人は、<一生をかけて修行する人々>とのことで、とても特殊な立ち位置だったようです。寺の中でのヒエラルキーは低く(低いというか別格というのが正しいのかな)修験者の入峰儀礼にも参加できず、寺での灌頂も受けられなかったので、修験でも仏の道でも上を目指すことはかなわなかったようです。湯殿山の修験者は、家を持ち妻帯し百姓などとしての仕事も持っていたようですが、一世行人たちは禁欲し肉食せず、行に専念していたとか。極寒期に山に入り、湯殿山の仙人沢や玄海に千日間籠り続け、水垢離し、木食行(肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)をしたそうです。そんな栄養状態良くない中での行で、湯殿山の仙人沢などでは、行の途中でたくさんの一世行人が亡くなっているようです。 即身仏の多くは、実は一世行人と呼ばれる人たちがなったもののようです。 少し話を戻しますと、出羽三山の羽黒山ももともとは湯殿山と同じ真言宗のお寺だったそうなのです。羽黒山中興の祖と言われる別当天宥法印が、徳川家の庇護を受けるために天台宗への改宗を行います。羽黒山側は湯殿山派4ヶ寺にも天台宗への改宗を求めますが、拒まれたため、裁判に発展したそう。 神仏分離以前に、ここで羽黒山との溝ができたんだな~と納得。そして湯殿山派は自分たちの真言宗としての正当性を求めるために、「開祖の空海に倣い、即身成仏を実践している」と宣言しました。そのために、そこから湯殿山派の行人たちは即身仏を目指すようになったのだそう。その証拠にそれ以前に即身仏になった人はいなかったそうです。 これを知り、とてつもない衝撃を受けました。 古代からお山の利権をめぐった宗教間でのなんやかんやを自然は、神々はどう見ていたのだろうと思うと眩暈がしますが、ただ、純粋なまでに行に打ち込む一世行人の姿には、頭が下がる思いです。 ある部分では柔軟にものごとに向き合っていくことが大切だと思っていますが、それには熱く鉄のような意志が心にあってこそだと。貫き通すことへの強い想い、を湯殿山の歴史から感じました。 それと明治の神仏分離で失ったものは、仏像や建造物のモノだけでなく、祈りの形というか、何かもっと別の大切なものだったのではないかというのも、すごく考えさせる庄内小旅行でもありました。雪が解けたら湯殿山の本宮や月山、鳥海山に登拝してみたいです。 長々と失礼しました!

新年は、西へ

1月2日から1月6日の5日間、彼氏と共に車で旅に出ていました。北陸経由で富山に前後1泊し、石川、福井、滋賀、京都と南下して2~3年ぶりに大好きな奈良へ。奈良や京都、滋賀、大阪、西の国へは時折無性に行きたくなります。 関西へ行くなら会いたい人も何人かおりまして、でもさすがに三が日に声をかけるのは…と思っていたのですが、なんと旅の途中、京都のお友達のお二人、Cちゃん&セレーナ・マリアさんと合流することができました^^お二人と八幡市の石清水八幡宮と京田辺の月読神社に初詣してきました。本当に直前だったのに駆けつけてくれたお二人に感謝です。この日は一緒に夜ご飯もご一緒できて、色んな話を楽しくさせていただきました。 奈良は若草山の麓のMountain Home Lodge in Deer Parkさんに2泊。とても綺麗で快適でコスパの良いお宿でした~。 こちらに泊まれたおかげで夜の二月堂へ行くこともできました。夕方過ぎると年始でも若草山近辺はとても静かです。 今回奈良では初めての場所にも行けました。天理市のの石上神宮。布都御魂剣をご祭神とし、十拳剣、七支刀などなどたくさんの剣にゆかりのある、物部氏の古社。もっといかめしい場所だと思っておりましたが、石上は思っていたよりとても静かで優しい場所で、光と空気と水と緑が美しかったです。お社よりも、この池と森と山のほうから明らかに美しい気が漏れてきていました。 そしてずっと行ってみたかった宇陀の室生龍穴神社の奥宮・吉祥龍穴や天岩戸にも。静かで美しい場所でした。岩盤の迫力に圧倒されました。なんかどことなく栃木の那須塩原の竜化の滝~天狗岩近辺に似てるな~と思いました。那須塩原のほうが「気配」は少ない?the自然って感じなんですけどね。笑 室生を後にして、折角だからと、宇陀市巡り。ふらりと見つけた宇陀の八咫烏神社や、宇太水分神社、阿紀神社も巡りました。 阿紀神社では何故だか心に残るおじいちゃんとの出会いもありました。阿紀神社周辺は古代、阿騎野(あきの)といって、貴人の狩場であったそうなのですが、その方、柿本人麻呂がその阿騎野にちなんで詠んだ歌の歌碑を探して訪れたようで、ひょっこり現れた我々にその場所を尋ねてこられたのですが、むろん我々も初めての場所で分らず。笑我々が福島から来たと知ると大学の時に福島の友達がいたのを思い出されたようで、短い言葉だったのですがその思い出を語ってくれました。ちなみにその歌碑はおじいちゃんが去った後、我々の車を止めていた真後ろにありました。笑「阿騎の野に宿る旅人打ち靡き眠も寝らめやも古思ふに」 ↑ ※リンク先に現代語訳と解説があります。 帰りは北上する途中で、京都の木津川の蟹満寺や湧出宮に寄り、そこに残る伝承に想いを馳せることになりました。古代には失われた神々や人々の歴史がまだまだありそうです。蟹満寺は蟹が蛇を退治したという伝説にちなんだ扁額がすごいです。 京都を抜け、滋賀。帰りは湖西を北上しました。近江神宮や白髭神社に立ち寄ることができました。白髭神社の湖中大鳥居は有名ですが、それだけでなく、白髭神社の磐座と森が素晴らしく、しばらく佇んでおりました。 西に居る間中お天気がとても良く、どこも素晴らしい光に満ちていましたが、白髭神社を後にして車を走らせていると、最後に琵琶湖に大きな虹がかかっているのを見れました。(写真を上手く撮れず無念)なんだか旅を祝福してくれているようで嬉しかったな。その直後から富山までずっと雨・雨・雨でしたけど。(笑) 前後2日泊まった富山も、お酒とご飯がとっても美味しくて、そしてとても空と海が美しかったです。(荒れてたけど・笑)今度はもっと時間をかけて富山探索したいなと思いました。 そして最終日、富山の朝日町と新潟の糸魚川へ。浜辺で翡翠探しをして、この旅を締めることにしました。2018年夏から通い続けて、三度目の正直。雪がちらつく真冬の日本海で波に濡れながら、ようやく小さな翡翠輝石をゲットしました。 たくさんのギフトをもらった旅でしたが、形となって宝物を最後に受け取ることができました。土地の精霊や神々よありがとう~~~。 まだ旅の余韻が残っていますが、このエネルギーを咀嚼して製作のほうに活かしていけたらなと思います。 皆様の2019年も素晴らしい幕開けとなりますように。

ときはたまゆら

越谷市に住む、死んだ祖父の一番下の弟「のぶおじちゃん」が入院したと、つい先日、父に連絡が入り、先週末お見舞いに行ってきました。 父は一人っ子なので、父方の親戚づきあいというのは、私たち姉弟の代では希薄で、名前も良く知らない親戚が多いのですが、「のぶおじちゃん」は小さい頃からお世話になっていて、祖父が小学生の時に亡くなっていることもあり、私たち姉弟にとって祖父のような存在でした。話し上手でユーモアがあり、会うたびに仙人のような格言を一言「置いていく」ような人で、年に1度おじちゃんが会津に帰省するのを楽しみにしています。 ちょうど1年前に会津に来た時も80代半ばなのに夜遅くまでたっくさんお酒を飲んで喋って、元気だなあと思っていたのですが、突然の入院の知らせ。想像していたよりかは元気な表情を見れたので、少し安心しましたが、喋ることや食べることが難しくなってきているので、とても心配です。 知っている人がある日亡くなっても、自分は泣いたりしない冷たい人間かもしれないと思っているところがあるのですが、それでもいなくなったら寂しいなと思う人は何人かいます。元気になったのぶおじちゃんと、また美味しいお酒が飲みたいな。 あの頃小学生だった私も今や30歳を過ぎてしまって、時が流れたんだなというのをしみじみと感じています。会いたい人には会ったほうが良いし、やりたいことはやったほうがいい、悔いを残している場合なんかじゃない、と言葉にするとだいぶ陳腐だけど、本当にそうなんだよなあと思います。黙っていても時は流れるから。そういう意味で、のぶおじちゃんは「時」の使い方が上手い人なんだと思います。だから一言に重みがある。全く同じように生きることはできないけど、彼のように上手な「時」の使い方ができたらいいなと思っています。 越谷でのお見舞いの後に、一緒に付いてきてくれた彼氏と行きあたりばっ旅をしてきました。越谷から千葉県は野田市へ、野田では櫻木神社という神社へ立ち寄りました。たまたま看板を見つけ立ち寄った場所でしたが、大変立派なお社で、とても気の良い場所でした。藤原氏が平安時代に創建した野田市最古のお社だそうですが、境内からそれよりも古い時代、古墳時代前期に玉類を作っていた生産工房跡が出土したそうです。 そこからさらに利根川の流れに沿って海まで出ました。鹿島灘。5月の海、大変美しかったです。 一泊して、茨城では魂の故郷のひとつの鹿島神宮や、鹿島の元宮である大生神社、坂戸神社、沼尾神社に立ち寄りました。鹿島神宮には前日の夕方、誰もいない境内を散策できたのも良かったです。次の日は雲一つない青空で、木漏れ日が美しく揺らめいていました。どのお社も緑のエナジーが爽やかで本当に心地よかったです。 最後は大洗まで北上して、磯浜古墳群を見て、そこから帰路へ。帰りの空にずっと不思議な雲と彩雲が出ていました。 時空を越えた旅をしてきたようなそんな感覚、また少し自分のエネルギーが、微細に変化したような気がします。流れゆく時と、そして時の狭間にある永久と。私たちはその二つを感じながら前に進んでいくのだと思います。出会うすべてに感謝しながら。 玉響(たまゆら)=勾玉同士が触れ合ってたてる微かな音のこと。転じて、「ほんのしばらくの間」「一瞬」、あるいは「かすか」を意味する古語。 wikipediaより

2017.11.17(金) セレーナマリア&つくし 錦秋のミニコンサート

 ご報告が大変遅くなってしまいましたが、2017.11.17(金)、京都の竪琴奏者&シンガーソングライターのセレーナ・マリアさんとフォークグループつくしのコラボミニコンサートが会津で開催されました。 今年5月にもつくしと一緒にコンサートさせていただきまして、まさか年内にもう一度一緒にコンサートさせて頂けることになるとは、私もびっくりです~。マリアさん、おじさんたちの願いを叶えてくださり、本当にありがとうございます。さてコンサートは以前より広い会場で行われまして、たくさんの方々に来場して頂き、みなさん美味しいお食事とマリアさん&おじさんたちの歌声を楽しんでいらっしゃいました。 前回いらっしゃらなかった方も沢山いらっしゃいましたので、ライアーの演奏を初めて聞くという方も多かったのではないでしょうか。マリアさんが持参してくださったCDもあっという間になくなってしまいました。 本当に素晴らしいひと時でした。マリアさん、ありがとうございます^^ こちらはオフショット。お食事中をパチリ。今回は前回の裏磐梯コンサートにお客様としていらっしゃったKさんが、マリアさんのマネージャー件カメラマンとして同行してくださいました。マリアさんとKさんのツーショット。ナイスコンビです☆Kさんの撮られるお写真は本当に素敵なのです~。カメラマンとしてのKさんのご活躍も楽しみです☆ またコンサート前には、会津坂下町の心清水八幡神社と立木観音へ。秋の美しい景色も堪能することが出来ました。 Kさんのカメラを真剣に構える姿をついつい撮ってしまう私なのでした。笑 ↓は、Kさんに撮影してもらったマリアさんとの一枚。また素敵な思い出が増えました^^ 続きます☆

飛行機で日帰り大阪のたび

先日、キスマイの北山くんの主演舞台「あんちゃん」を観るために福島から大阪まで日帰りで飛行機の旅をしてきました(笑) 北山くんの舞台の感想などはまたブログにまとめるとして、、、限られた時間で大阪のKさんとKさんの彼女のLさん、京都のCちゃんが会いにきてくれまして、短時間でいろんなところへ案内してくださいました。KさんとCちゃんとは5月の裏磐梯マリアさんコンサート以来、とてもうれしい再会です^^ さて、Kさんの車で案内していただいたのは、四天王寺、杭全神社(くまたじんじゃ)、北畠顕家の墓、安部晴明神社、安倍王子神社 。それと北山君の舞台観終わった後に一人で鵲森宮(かささぎのもりのみや)にもお邪魔してきまして…短時間(約5時間弱)でめちゃくちゃ回ったな…とびっくりしております。笑 ◇四天王寺 写真はあべのハルカスと四天王寺の五重塔。ほんと大きなお寺でした~。でもメインで観たのは、本堂から右手にある、聖徳太子を祀った太子殿。本当は物部守屋の祠を見たかったのですが、太子殿の東奥にあり、聖徳太子の縁日である毎月22日しか近寄ることができないそうで、遠目よりお参りしました。四天王寺は、歴史では聖徳太子が廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子の合戦の折り、自ら四天王像を彫り、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立すると誓願され建立された寺だとされています。 お土産に蘇利古の顔がプリントされたハンカチを買いました。以前ピンタレストで蘇利古の画像を見て、かっこいー!と思っていたものでしたが、どうやら四天王寺の聖徳太子の聖霊会で舞われるものみたいですね。 ◇杭全神社 四天王寺の前の道路標識に、杭全(くまた)とあり。気になって訪れた場所でした。クマタはクダラが訛ったものという説もあるそうな。この一帯は坂上氏の荘園だったようで、坂上氏に関係の深い場所でもあるらしいです。ご祭神は素戔嗚さん、熊野三所権現、伊弉諾尊を祀ってたよ〜。大きな木がたくさんあってすごく気持ちの良い場所で、時間のことを考えなければずっとぼーっとしていたかったです。 ◇鵲森宮   森ノ宮の地名の由来はこのお宮からきているそうです。このあたりには、最初の四天王寺(元四天王寺)があり、その鎮守社として聖徳太子が両親である用明天皇と穴穂部間人皇后が祀った場所だそうです。もっと古い時代のことを言えば、元々ここには討たれた物部守屋の邸宅があったそうです。境内にいっぱい蜂が飛んでいたのが印象的でした。 ◇北畠顕家の墓 安倍清明神社に向かう途中、車を止めた駐車場の近くにあった公園にお墓がひっそりとあり、何気なく立ち寄ると、陸奥守をしていた北畠顕家という方のお墓でした。なんと、この方福島とはとても深いご縁があるようで、福島の霊山(りょうぜん)にもお祀りされているよう。こんなところで福島とご縁のある方の場所に導かれるなんて、近々、霊山行ってこようっと。 ◇安倍清明神社 こちらは京都ではなく、大阪阿倍野区の清明神社。安倍清明生誕の地といわれております。住宅街の中にひっそり佇んでおりました。陰陽師ブーム?のせいか結構若い観光客がたくさんいらっしゃいました。隣の社務所?のような場所でどうも占いをしてくれるらしいです。看板が立っておりました(笑) ◇阿倍王子神社 安倍清明神社のほど近くにある神社、仁徳天皇が創建した神社と言われておりますが、阿倍野には古代、奈良県桜井市より安倍氏が移り住んだようで、安倍氏との繋がりも深い場所であり、安倍氏の氏神とも伝えられております。古代には安倍氏の安倍寺もあったようですが、勢力が衰え四天王寺に吸収されたようです。こちらは大きな木がたっくさん!!ご神木それぞれに神名がありました。本当に素敵な神社でした~~!また、こちらは四天王寺と住吉大社のほぼ中間の位置にあり、熊野参詣の街道筋の熊野参詣の九十九王子のひとつでもあり、阿倍野王子と呼ばれるようになったそうです。 …と、駆け足でしたが、大阪は去年、キスマイのコンサートの次の日に住吉大社にお邪魔したぐらいだったので、またいろんな場所をまわれたのがとっても嬉しかったです。Kさん、Lさん、Cちゃん、ありがとうございました^^  そして今回久しぶりの飛行機の旅でした、しかも自力で1人で乗るのは初めてで、小学生のように興奮してしまいました。めっちゃ楽しかった(笑)雲や太陽が美しくてずっと窓の外の景色を見ていました~~。着陸するときに、前方後円墳が数基見えて、それがめちゃくちゃ興奮しました。応仁天皇陵か仁徳天皇陵かな。今年のお盆は飛び石気味のお休みだったので、1日だけでしたが舞台観て、神社数社巡れて、すごく素敵なお休みになりました^^ 

観音岩 御蔵入三十三観音20番札所 川島 岩戸堂(福島県南会津町)

福島県南会津郡南会津町藤生北緯37度10分11秒 東経139度43分57秒 祭神 : 聖観音菩薩創建 : 未詳 <由緒・歴史> 観音堂は村北六町山の中腹岩窟の中に観音を安す(新編会津風土記)   川向の山御坂難所有。三町余所に険のくさりをとらひ登る、岩窟に御立(南山三十三観所巡礼歌集)   南会津町川島宿にあった旧南照寺の修験者が修練した岩山、頂上一帯は見事な巨岩となっており、観音岩と呼ばれています。中腹の穴の開いた大きな岩に御蔵入三十三観音の二十番札所となっている岩戸堂がひっそりと立つ。川島宿に位置する旧南照寺の別当である川島家は蒲生秀行時代に南会津50箇寺の取締りを任せられていたそうで、南会津の修験道では大きな勢力を持っていたようです。 川島 岩戸堂となっていますが、所在地の住所は藤生(とうにゅう)地区となっており、源義経やイザベラ・バードも立ち寄ったという川島宿の川向いにある集落の小塩(こしゅう)の山となっています。入り口ならびに、お堂までの参道も踏襲が分かりにくくなっており、獣道のようなところを進んでいくほかないのですが(※現在入り口だと思われている場所…道路わきの石碑が立っている場所…は本来の入り口ではなく、岩戸堂に登るための近道で、本来はも別に入口があるそうです)そこまで難しい山ではないので、山に慣れた人であれば登るのは難しくなさそう。ただ斜面が急で上は一帯が岩場になっているので、滑落などには注意が必要だし、あまり人の入らない山なので、熊などの野生動物にも注意したいところです。そして集落の山でもあるので、一人での登山は避けられたほうが良いと思います。 ※御蔵入(おくらいり)=江戸時代の幕府直轄領の呼称で、南会津郡全域から栃木県藤原町の五十里湖までで、約五万五千石の地域が、「南山御蔵入領」として定められました。 ※御蔵入三十三観音=三十三の姿に身を変えて衆生(しゅじょう)を救うといわれる観音信仰から、平安時代に始まったとされる三十三観音巡りですが、会津には保科正之の時代、寛政二十年(1643)に札所が制定されました。それに遅れること約50年、御蔵入三十三観音は、領民からの発願で元禄11年(1698)に制定されました。人々は田畑の仕事が一段落した7月頃に、三十三観音札所を巡礼して回ったそうです。   入り口にある石塔から右手に山へ入っていく、途中枯れた沢のようなところを越えたあたりから、急な斜面を左手に登っていくと、なんとなく踏襲が見えてきます。それを辿ってしばらく登ると、だんだん岩場になってきて、前方に一際大きな巨岩が見えてきます。 近づくと中腹に穴の開いた大きな岩場が、細井敬介氏の著書「御蔵入三十三観世音」によると、これは水成岩だそう。岩場に人工的に彫られた階段のようなものがあり、それを備え付けられているワイヤーのようなものを辿って登ると、岩窟に木製の立像の納められたお堂があり、右の岩窟にも小さなお堂が、こちらは石の座像が安置されています。 集落の人の話によれば、岩戸堂のお堂の下は空洞になっており、ご本尊はこの穴の中に安置されているとのこと。お堂が立つ板の下が空洞ということでしょうか?またこちらは空洞になっているため、岩を叩くと音が響くことから、太鼓岩と呼ばれているそうで、確かに反響音があります。しかしながら、ここから左手のほうへ巨岩をまわりこむように奥へ進むと、更に大きな岩窟の広いスペースがあり、こちらにも岩に埋め込まれるような形でお堂があり、岩の中の空洞という意味ではこちらも同じなので、こちらが太鼓岩なのかな?(※追記 下記の場所がどうやら太鼓岩のようです↓) またこちらの岩窟の向こう側も更に岩場が続いており、回り込めば更なる巨岩や奇岩を見ることが出来ます。 頂上一帯がそういった雰囲気です。   近所に彼氏が住んでいたので、この場を知ることができ、磐座&巨石好きの探検心でこちらに登らせて頂きましたが、まさかこんなに立派な岩山だとは知らず、初めて登った時にはとても感激しました。こういった立派な磐座と信仰の場が手つかずの状態で歴史から忘れ去られ、眠っているということには、寂しさを覚えるものの、このまま秘密の場所として在って欲しいような不思議な気持でもあります。 また集落の人の話では、山の奥に古墳や石器~縄文時代の遺物が出る所や、他にも色々発見があったそうで調査をしているところだそうです(この地域での古墳は極めて珍しいです)、この地方では取れない黒曜石の矢じりや、加工する前の黒曜石の塊なども出ていることや、この場所を管理していた渡部家が二十数代続いていることなどからも、岩戸堂としての歴史は江戸期に入ってからかもしれませんが、古来よりこのあたりは神聖な場所として在ったかもしれないなあと思うと、とてもロマンを感じる場所です。   お堂近くの岩の上から見える景色。遠景に川島宿が見えます。 こちらは奥の岩の上から見える景色。  右手前に地域のワラビ園である鋏山と、奥に鬼伝説の残る七ヶ岳が見えます。   ※2017.6.18 集落の人から聞いた話を更に加筆修正しました。

安久津八幡神社 (山形県東置賜郡)

山形県東置賜郡高畠町安久津2011北緯38度0分30秒 東経140度13分7秒 祭神 : 誉田別命創建 : 貞観2年(860年)   <由緒・歴史>安久津八幡神社は、貞観2年(860年)、慈覚大師が豪族、安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建てたのが始まりと言われ、後、平安後期に奥州平定のため、源義家が、戦勝を祈願して、鎌倉鶴岡八幡を勧請したと伝えているが、もとより定かではない。生い茂る樹木に囲まれ苔むす石畳参道の入口左手に、端麗な姿の三重塔、参道途中に舞楽殿、その奥に本殿がある。この三建造物は県の指定文化財となっている。 三重塔は寛政9年(1797年)に再建されたもので、初建は、寛永2年(1625年)といわれている。方三間造で銅版葺き、置賜地方唯一の層塔である。 舞楽殿は、室町末期のものといわれ、方一間宝形造、茅葺きである。毎年5月3日には、倭舞(やまとまい)、9月15日には延年の舞が気品高く、古式豊かに舞われる。本殿は、三間社流造、茅葺きである。 境内には、鐘つき堂・流鏑馬的場跡などがあり、裏山一帯には、安久津古墳群(鳥居町支郡)十数基が点在している。そのほか奥の院の洞窟などがあり片葉の葦、爺婆石、弘法清水などの伝説も残っている。町歴史公園の東に位置し、神社西方の山は5千本ほどのつつじで彩られる。境内の東側には、郷土資料館がある。また、周辺を歴史公園として整備し、「うきたむ風土記の丘」の中核施設として県立考古資料館がある。~山形県高畠町HPより~ 貞観二年(860)慈覚大師が安久津の豪族安久津盤三郎の協力で阿弥陀堂を建立、金蔵院として信仰を集める。永承六年(1051)源義家が安倍一族討伐の命を受け二井宿峠を越えて当山に入り戦勝を祈願し大勝利を得た(前九年の役)寛治元年(1087)再度金蔵院に立ち寄り戦勝を祈願し大勝利を得た(後三年の役)そこで鎌倉の由比郷より八幡神を分霊してお祀りしたのが安久津八幡神社の起こりと言い伝えられている。源氏の氏神八幡神に甲冑や刀を奉納、別当神宮寺・学頭金蔵院・衆徒頭千殊院始十二坊を置き、神官社家三十余人を配し、神仏両部の祭典儀式が定められていた。以後、長井・伊達・蒲生・上杉と歴代領主により保護され、社殿の造営や社領等の寄進が行なわれてきた。鎌倉時代から室町時代にかけて院や坊の最盛期修行僧の能海・堪忍等の写経筆跡が神奈川県「金沢文庫」に残っている。伊達氏の尊崇特に篤く広大な社領を寄進される。「独眼竜政宗」は重臣「片倉小十郎」をもって総裁に任じ神務までも司り、隆盛を極めた。伊達氏に変わり蒲生氏が領主になると社領は没収され、社頭は衰運するが祭祀は継続された。文禄三年(1594)より上杉家の領地となり寛文四年(1664)に天領となる。寛文十三年(1670)に社領五十石を賜り明治三年(1870)まで続く元和元年(1615)拝殿火災 元和三年(1617)拝殿再建元和五年(1619)本殿焼失 寛永七年(1630)本殿再建元文二年(1737)寛保三年(1743)火災により旧記・宝物等焼失宝暦五年(1755)大飢饉の中現在の社殿が再建される明治四五年(1912)今の社務所にあった金蔵院が火災で焼失 ~安久津八幡神社公式サイトより~   三重の塔や、茅葺屋根の舞殿・本殿など見ごたえのある建築。雰囲気のある静かな佇まいの神社。 神社は上の写真を見て頂いてもわかるように、山と平野の境にあり、山がコの字型に神社を取り囲んでいます。境内と山(八幡山)の中腹などには、7~8世紀ごろの古墳が12基あるようです。(鳥居町支群)いずれも終末期の円墳で南に石室が開口しています。この古墳群は安久津古墳群の一部で、近くには他にも古墳や、洞窟遺跡などが点在しているようです。置賜郡が古くから栄えていたということを物語っています。 ↑神社脇の古墳。雪で近寄れず。玄室が開口しているのが遠目にも見えます。 山の頂上には奥の院があるようで、洞窟になっているらしい。行かれた方のブログ写真を見る限り、なかなか素敵な磐座のようです。こちらに訪れたことは過去二度。最初に訪れたのは10年前ぐらいの夏、その頃はまだ古墳にそれほど興味がなくスル―してしまったのでした。次に訪れた時は雪で山への道が閉ざされており、古墳も奥の院にも行けなかったので、また時期を改めて散策したいと思っています。 ↑そしてこちらの狛犬はとってもキュート♡なのである。