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    秘めたる祈りは熱く、鋼のごとく

    春は庄内に行きたくなる。 …のかわからないですけど、 意図せず先日、去年と同じ時期に山形は庄内地方へふらりと行ってきました。その前に行った時も春だったな。去年は鳥海山近辺をぐるぐる回って、丸池様とか釜磯の湧水見たり、秋田側まで足を延ばして、元滝見たりして、、とにかく虜になってしまったのでした。奈良や糸魚川に恋に落ちたのと一緒の感覚ですね。ご飯もおいしかった。庄内スキ♡ 鳥海山・出羽三山スキ♡ 庄内の自然のエナジー最高♡その土地その土地のエネルギーってありますが、肌になじむ感じ?なんて言ったらいいのか、お懐かしうございますぅ、みたいな感じです。(更に謎) そして先日のこと、行きたいな~と思いつつ、1年ぶりの庄内。来たはいいけど、月山も湯殿山も本宮まで雪で行けないだろうしなーと思って、なんとなく湯殿山の瀧水寺大日坊に訪れてみました。 500円の拝観料で簡単なお祓い(若めの方がしてくださいました)と、大日坊の歴史を高齢のお坊さんが説明してくれたんだけども、お話し前のご祈祷が最高にすっきりしたのよ。「六根清浄~」の独特のリズムと大きな梵天をパッパッと振ってもらったら頭がスーッとしていって。テレビとかで修験の方が「懴悔(さんげ)懴悔(さんげ)六根清浄~」って唱えながらお山を駆けているの見るとなんか知らんけどあのリズムにウルっときちゃうので、たぶんその感覚なんですけど。 高齢のお坊さんによる大日坊の歴史のお話は、ちょっと偏ってる部分あるなー、商売っ気あるなー(笑)と、思うところはあったものの、講談聞いているみたいですごく面白かったです。羽黒山の出羽三山神社では出羽三山は崇峻天皇の皇子である蜂子王子が開山としていますが、大日坊は大同2年に空海が開いたと言われているそうで羽黒山側と湯殿山側で見解が違うのも面白いです。 明治の神仏分離・廃仏毀釈で、羽黒山などが神社に変わった中でも、ここはお寺であることを変えず、かなり大変な目にあったようで、そしてお坊さんの口ぶりから、どうも羽黒山と確執があるような雰囲気を感じました。それと明治政府への恨みたいなのを感じて、あれ?これこの感じ良く知ってるな、なんだっけ、常日ごろ味わってるやつ… そうそう…地元会津と一緒じゃん! って思ったけど、そもそも庄内は戊辰戦争で会津同様に旧幕側の急先鋒(会庄同盟っての組んでましたわ)で、その根底にある気骨のようなものは、似てるんだなと気づきました。庄内って勝手ですけど自然が雄大なだけにおおらかなイメージがありましたが、奥に反骨精神のような鋭い熱意のようなものがあるのだと感じてびっくりしたのでした。 こちらのお寺、真如海上人という方の即身仏もいらっしゃいます。即身仏に対してあまりいいイメージがなかったのですが、即身仏の説明や神仏分離で大変だった話とか色々聞いていたら、庄内のどういった歴史や風土から、即身仏が生まれたのだろうと妙に興味がわいてきて、帰ってからネットとか文献読み漁って色々調べてしまいました。 以下、ながーくなりますが、お付き合いください。笑 出羽三山は今は月山・羽黒山・湯殿山ですが、その昔は、湯殿山は含まれなかったようで、(中世頃までは鳥海山・月山・葉山のことを三山と言ったという説もあり)湯殿山は山のことではなく、現在湯殿山神社のご神体となっている巨岩のことを言ったそうで、湯殿山は出羽三山それぞれの「総奥の院」とされたそうです。湯殿山麓には別当寺として湯殿山派4ヶ寺(注連寺、大日坊、大日寺、本道寺)というのが存在していて、4ヶ寺の宗派は江戸時代の寛永中期(1624-1644)ごろには真言宗の影響が濃くなっていったそうです。 湯殿山4ヶ寺で活動した人々は、およそ三種類に分けられるようです。 清僧(正式な僧侶)修験者一世行人 この中でも湯殿山を中心に活躍した一世行人は、<一生をかけて修行する人々>とのことで、とても特殊な立ち位置だったようです。寺の中でのヒエラルキーは低く(低いというか別格というのが正しいのかな)修験者の入峰儀礼にも参加できず、寺での灌頂も受けられなかったので、修験でも仏の道でも上を目指すことはかなわなかったようです。湯殿山の修験者は、家を持ち妻帯し百姓などとしての仕事も持っていたようですが、一世行人たちは禁欲し肉食せず、行に専念していたとか。極寒期に山に入り、湯殿山の仙人沢や玄海に千日間籠り続け、水垢離し、木食行(肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)をしたそうです。そんな栄養状態良くない中での行で、湯殿山の仙人沢などでは、行の途中でたくさんの一世行人が亡くなっているようです。 即身仏の多くは、実は一世行人と呼ばれる人たちがなったもののようです。 少し話を戻しますと、出羽三山の羽黒山ももともとは湯殿山と同じ真言宗のお寺だったそうなのです。羽黒山中興の祖と言われる別当天宥法印が、徳川家の庇護を受けるために天台宗への改宗を行います。羽黒山側は湯殿山派4ヶ寺にも天台宗への改宗を求めますが、拒まれたため、裁判に発展したそう。 神仏分離以前に、ここで羽黒山との溝ができたんだな~と納得。そして湯殿山派は自分たちの真言宗としての正当性を求めるために、「開祖の空海に倣い、即身成仏を実践している」と宣言しました。そのために、そこから湯殿山派の行人たちは即身仏を目指すようになったのだそう。その証拠にそれ以前に即身仏になった人はいなかったそうです。 これを知り、とてつもない衝撃を受けました。 古代からお山の利権をめぐった宗教間でのなんやかんやを自然は、神々はどう見ていたのだろうと思うと眩暈がしますが、ただ、純粋なまでに行に打ち込む一世行人の姿には、頭が下がる思いです。 ある部分では柔軟にものごとに向き合っていくことが大切だと思っていますが、それには熱く鉄のような意志が心にあってこそだと。貫き通すことへの強い想い、を湯殿山の歴史から感じました。 それと明治の神仏分離で失ったものは、仏像や建造物のモノだけでなく、祈りの形というか、何かもっと別の大切なものだったのではないかというのも、すごく考えさせる庄内小旅行でもありました。雪が解けたら湯殿山の本宮や月山、鳥海山に登拝してみたいです。 長々と失礼しました!

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    観音岩 御蔵入三十三観音20番札所 川島 岩戸堂(福島県南会津町)

    福島県南会津郡南会津町藤生北緯37度10分11秒 東経139度43分57秒 祭神 : 聖観音菩薩創建 : 未詳 <由緒・歴史> 観音堂は村北六町山の中腹岩窟の中に観音を安す(新編会津風土記)   川向の山御坂難所有。三町余所に険のくさりをとらひ登る、岩窟に御立(南山三十三観所巡礼歌集)   南会津町川島宿にあった旧南照寺の修験者が修練した岩山、頂上一帯は見事な巨岩となっており、観音岩と呼ばれています。中腹の穴の開いた大きな岩に御蔵入三十三観音の二十番札所となっている岩戸堂がひっそりと立つ。川島宿に位置する旧南照寺の別当である川島家は蒲生秀行時代に南会津50箇寺の取締りを任せられていたそうで、南会津の修験道では大きな勢力を持っていたようです。 川島 岩戸堂となっていますが、所在地の住所は藤生(とうにゅう)地区となっており、源義経やイザベラ・バードも立ち寄ったという川島宿の川向いにある集落の小塩(こしゅう)の山となっています。入り口ならびに、お堂までの参道も踏襲が分かりにくくなっており、獣道のようなところを進んでいくほかないのですが(※現在入り口だと思われている場所…道路わきの石碑が立っている場所…は本来の入り口ではなく、岩戸堂に登るための近道で、本来はも別に入口があるそうです)そこまで難しい山ではないので、山に慣れた人であれば登るのは難しくなさそう。ただ斜面が急で上は一帯が岩場になっているので、滑落などには注意が必要だし、あまり人の入らない山なので、熊などの野生動物にも注意したいところです。そして集落の山でもあるので、一人での登山は避けられたほうが良いと思います。 ※御蔵入(おくらいり)=江戸時代の幕府直轄領の呼称で、南会津郡全域から栃木県藤原町の五十里湖までで、約五万五千石の地域が、「南山御蔵入領」として定められました。 ※御蔵入三十三観音=三十三の姿に身を変えて衆生(しゅじょう)を救うといわれる観音信仰から、平安時代に始まったとされる三十三観音巡りですが、会津には保科正之の時代、寛政二十年(1643)に札所が制定されました。それに遅れること約50年、御蔵入三十三観音は、領民からの発願で元禄11年(1698)に制定されました。人々は田畑の仕事が一段落した7月頃に、三十三観音札所を巡礼して回ったそうです。   入り口にある石塔から右手に山へ入っていく、途中枯れた沢のようなところを越えたあたりから、急な斜面を左手に登っていくと、なんとなく踏襲が見えてきます。それを辿ってしばらく登ると、だんだん岩場になってきて、前方に一際大きな巨岩が見えてきます。 近づくと中腹に穴の開いた大きな岩場が、細井敬介氏の著書「御蔵入三十三観世音」によると、これは水成岩だそう。岩場に人工的に彫られた階段のようなものがあり、それを備え付けられているワイヤーのようなものを辿って登ると、岩窟に木製の立像の納められたお堂があり、右の岩窟にも小さなお堂が、こちらは石の座像が安置されています。 集落の人の話によれば、岩戸堂のお堂の下は空洞になっており、ご本尊はこの穴の中に安置されているとのこと。お堂が立つ板の下が空洞ということでしょうか?またこちらは空洞になっているため、岩を叩くと音が響くことから、太鼓岩と呼ばれているそうで、確かに反響音があります。しかしながら、ここから左手のほうへ巨岩をまわりこむように奥へ進むと、更に大きな岩窟の広いスペースがあり、こちらにも岩に埋め込まれるような形でお堂があり、岩の中の空洞という意味ではこちらも同じなので、こちらが太鼓岩なのかな?(※追記 下記の場所がどうやら太鼓岩のようです↓) またこちらの岩窟の向こう側も更に岩場が続いており、回り込めば更なる巨岩や奇岩を見ることが出来ます。 頂上一帯がそういった雰囲気です。   近所に彼氏が住んでいたので、この場を知ることができ、磐座&巨石好きの探検心でこちらに登らせて頂きましたが、まさかこんなに立派な岩山だとは知らず、初めて登った時にはとても感激しました。こういった立派な磐座と信仰の場が手つかずの状態で歴史から忘れ去られ、眠っているということには、寂しさを覚えるものの、このまま秘密の場所として在って欲しいような不思議な気持でもあります。 また集落の人の話では、山の奥に古墳や石器~縄文時代の遺物が出る所や、他にも色々発見があったそうで調査をしているところだそうです(この地域での古墳は極めて珍しいです)、この地方では取れない黒曜石の矢じりや、加工する前の黒曜石の塊なども出ていることや、この場所を管理していた渡部家が二十数代続いていることなどからも、岩戸堂としての歴史は江戸期に入ってからかもしれませんが、古来よりこのあたりは神聖な場所として在ったかもしれないなあと思うと、とてもロマンを感じる場所です。   お堂近くの岩の上から見える景色。遠景に川島宿が見えます。 こちらは奥の岩の上から見える景色。  右手前に地域のワラビ園である鋏山と、奥に鬼伝説の残る七ヶ岳が見えます。   ※2017.6.18 集落の人から聞いた話を更に加筆修正しました。

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    安久津八幡神社 (山形県東置賜郡)

    山形県東置賜郡高畠町安久津2011北緯38度0分30秒 東経140度13分7秒 祭神 : 誉田別命創建 : 貞観2年(860年)   <由緒・歴史>安久津八幡神社は、貞観2年(860年)、慈覚大師が豪族、安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建てたのが始まりと言われ、後、平安後期に奥州平定のため、源義家が、戦勝を祈願して、鎌倉鶴岡八幡を勧請したと伝えているが、もとより定かではない。生い茂る樹木に囲まれ苔むす石畳参道の入口左手に、端麗な姿の三重塔、参道途中に舞楽殿、その奥に本殿がある。この三建造物は県の指定文化財となっている。 三重塔は寛政9年(1797年)に再建されたもので、初建は、寛永2年(1625年)といわれている。方三間造で銅版葺き、置賜地方唯一の層塔である。 舞楽殿は、室町末期のものといわれ、方一間宝形造、茅葺きである。毎年5月3日には、倭舞(やまとまい)、9月15日には延年の舞が気品高く、古式豊かに舞われる。本殿は、三間社流造、茅葺きである。 境内には、鐘つき堂・流鏑馬的場跡などがあり、裏山一帯には、安久津古墳群(鳥居町支郡)十数基が点在している。そのほか奥の院の洞窟などがあり片葉の葦、爺婆石、弘法清水などの伝説も残っている。町歴史公園の東に位置し、神社西方の山は5千本ほどのつつじで彩られる。境内の東側には、郷土資料館がある。また、周辺を歴史公園として整備し、「うきたむ風土記の丘」の中核施設として県立考古資料館がある。~山形県高畠町HPより~ 貞観二年(860)慈覚大師が安久津の豪族安久津盤三郎の協力で阿弥陀堂を建立、金蔵院として信仰を集める。永承六年(1051)源義家が安倍一族討伐の命を受け二井宿峠を越えて当山に入り戦勝を祈願し大勝利を得た(前九年の役)寛治元年(1087)再度金蔵院に立ち寄り戦勝を祈願し大勝利を得た(後三年の役)そこで鎌倉の由比郷より八幡神を分霊してお祀りしたのが安久津八幡神社の起こりと言い伝えられている。源氏の氏神八幡神に甲冑や刀を奉納、別当神宮寺・学頭金蔵院・衆徒頭千殊院始十二坊を置き、神官社家三十余人を配し、神仏両部の祭典儀式が定められていた。以後、長井・伊達・蒲生・上杉と歴代領主により保護され、社殿の造営や社領等の寄進が行なわれてきた。鎌倉時代から室町時代にかけて院や坊の最盛期修行僧の能海・堪忍等の写経筆跡が神奈川県「金沢文庫」に残っている。伊達氏の尊崇特に篤く広大な社領を寄進される。「独眼竜政宗」は重臣「片倉小十郎」をもって総裁に任じ神務までも司り、隆盛を極めた。伊達氏に変わり蒲生氏が領主になると社領は没収され、社頭は衰運するが祭祀は継続された。文禄三年(1594)より上杉家の領地となり寛文四年(1664)に天領となる。寛文十三年(1670)に社領五十石を賜り明治三年(1870)まで続く元和元年(1615)拝殿火災 元和三年(1617)拝殿再建元和五年(1619)本殿焼失 寛永七年(1630)本殿再建元文二年(1737)寛保三年(1743)火災により旧記・宝物等焼失宝暦五年(1755)大飢饉の中現在の社殿が再建される明治四五年(1912)今の社務所にあった金蔵院が火災で焼失 ~安久津八幡神社公式サイトより~   三重の塔や、茅葺屋根の舞殿・本殿など見ごたえのある建築。雰囲気のある静かな佇まいの神社。 神社は上の写真を見て頂いてもわかるように、山と平野の境にあり、山がコの字型に神社を取り囲んでいます。境内と山(八幡山)の中腹などには、7~8世紀ごろの古墳が12基あるようです。(鳥居町支群)いずれも終末期の円墳で南に石室が開口しています。この古墳群は安久津古墳群の一部で、近くには他にも古墳や、洞窟遺跡などが点在しているようです。置賜郡が古くから栄えていたということを物語っています。 ↑神社脇の古墳。雪で近寄れず。玄室が開口しているのが遠目にも見えます。 山の頂上には奥の院があるようで、洞窟になっているらしい。行かれた方のブログ写真を見る限り、なかなか素敵な磐座のようです。こちらに訪れたことは過去二度。最初に訪れたのは10年前ぐらいの夏、その頃はまだ古墳にそれほど興味がなくスル―してしまったのでした。次に訪れた時は雪で山への道が閉ざされており、古墳も奥の院にも行けなかったので、また時期を改めて散策したいと思っています。 ↑そしてこちらの狛犬はとってもキュート♡なのである。

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    熊野大社(山形県南陽市)

    山形県南陽市宮内3476−1北緯38度4分38秒 東経140度8分19秒 祭神 :熊野夫須美大神 (伊弉冉尊)    熊野速玉大神 (伊弉諾尊)     熊野家津御子大神  (素盞鳴尊)創建 :大同元年(806年)に再建勧請 :平城天皇の勅命により再興祭礼 : 7月25日

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    大阪から近江八幡へゆくの巻。

    先日アップしたキスマイコンサートの記事、興奮のあまり、支離滅裂ってるなぁ…とちょこちょこ修正してるのですが、ダメですね~、好きなもののことほど客観的に書けないというか。 さて、キスマイのコンサート明けの月曜日のことも綴ってみようと思います。折角、大好きな関西に来たので、いろいろウロウロしたい、会いたい人に会おうということで出かけてきました。この日は、まず朝方、用事があるため一足先に帰る妹と駅で別れ、独りで住吉大社にご挨拶に行きました。 というのも、地元の猪苗代湖から住吉さんに「必ずお伺いさせて頂きますから、私を大阪まで連れて行ってください。」とキスマイのコンサートの当選祈願で想いのたけをとばしていたため、、(お世話になる土地の神様にご挨拶しておきたい性分)しかもめちゃめちゃ良い席が当選、これはちゃんと御礼参りしなきゃな~と、行ってまいりました。ほんとは京セラドームの氏神様がいいんだろうけど、大阪の大きな神社って住吉大社ぐらいしか分らなかったの。笑 朝なのに本当に暑くてね。すべてのお社にお参りしつつ、一番奥に地主神様を発見。しっかりご参拝。大きなお社でしたが余韻を感じる余裕もなくうろうろ。蚊がすごくてめちゃくちゃ刺されたうえに、おみくじでは凶を引くというwwwお言葉がしみますー。 住吉さんにご挨拶の後、京都へ移動して、セレーナMariaさんとCちゃんとお会いしてきました。お二人には会津と京都と距離としてはとても離れてはいますが、なんだかんだで1年に1回はお会いできているという、不思議なご縁です。Mariaさんには会津にも遊びにいらして頂いたりして、本当にありがたい限りです。Mariaさんに「2人(Cちゃんと私)揃ったら神社かなと思って。」と滋賀の近江八幡まで連れて行ってもらいました。全くノープランだった私、Mariaさん本当に何から何までありがとうございます。日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)にご挨拶して、ケーブルカーで八幡山の頂上へ。滋賀の神社はなんかかっこいいから好き(笑)頂上から琵琶湖を眺めました。 滋賀、なんか好きなんだよなぁ~。お昼ご飯は近江牛のハンバーグ。これがまためちゃめちゃ美味しかった~~。近江八幡の街並みもとっても素敵でした。水路がとっても発達していて、水の街って感じ~。 ランチの後、近くの磐座のちいさなお社に連れて行ってもらいました。以前、Mariaさんのインスタにここのお写真がアップされていて、磐座好きな私は「素敵♡」といいねボタン押してコメントしてたみたいなのですが、すっかり忘れており、それに対してMariaさんも「いつかお連れしたい」とレス下さっていて、それが今回叶ったかたちになりました。ミラクル~。 お二人と一緒に神社とかお出かけすると、いつものことながら、雨とか雷がね(笑)ここでも、雷鳴と雨が~。とっても素敵な磐座で、お二人が歌って下さって、お二人の美しい歌声と、この場所のエナジーにじーんときていました。ここに来れて良かった。そしてお参りを済ませた途端、雨足が更に強くなりました。 その後、近くのクラブハリエでティータイム。バームクーヘンを頂きました。 建物がすごくお洒落でかわいい~~。いつものことながら帰る頃には雨もすっかり上がっていました~^^ お二人とたくさんお話できてとても楽しかったです。 最後に京都まで戻ってきて、城南宮にもご挨拶。天使みたいに可愛らしい女の子と、そのお父さんの親子以外に誰もいない静かな城南宮でした。 お二人と久しぶりにお会いでき、そしてまた新たな土地とのご縁が深まって本当に嬉しい1日でした。お二人と秋に会津でお会いする約束を交わし、お別れしました。ほんとにたのしかった~~~~。Mariaさん、Cちゃん貴重なお時間作って頂き、本当に有難うございました。

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    白河総鎮守 白河鹿嶋神社

    前回の記事で、桙衝神社にいってきました。と書きましたが、この日実はもう一箇所足を延ばしていました。福島県白河市の白河鹿嶋神社です。 今回思いがけず訪れる事と相成ったのですが、、ご一緒していただいた某様とわたくし、素晴らしいお社で感激しました。 今まで訪れた地方の神社でTOP3…、いやある意味ナンバー1の心地よさでした。 まだ魂の半分そっちに行ってる感じです(危ない)え~と、真面目にレポしようと思ったのですが…この場所を言葉で理知的に語ることができないぐらい、感覚的な感動に満ち溢れていたので、今回は私の超絶ハイなテンションをお楽しみください。 白河鹿嶋神社も前回の桙衝神社と同じで、本殿裏手にお山と磐座のある神社です。こちらも古代からの祭祀が行われてきたとのこと。社伝としての創祀は宝亀年間(770年~780年)光仁天皇の時代。丁度この頃、東北は蝦夷の伊治呰麻呂の起こした宝亀の乱が起きていました。平定のため派遣されていた、陸奥鎮守副将軍の百済王俊哲(くだらのこにしきのしゅんてつ)が桃生・白河郡11社に戦勝祈願したと残っており、白河鹿嶋神社は、その時の1社なのではないかと思われます。 その後大同2年(811年)に坂之上田村麻呂が蝦夷征伐の際、改めて鹿島大明神を勧請したそうです。この鹿島さんも、桙衝神社と同様に磐座(古代祭祀)と蝦夷征伐がセットになっています。 ご祭神はタケミカヅチ。続日本紀によると御神体は、「小田切」・「瀬上」の二剣で、「韴霊神剣(ふつのみたまのつるぎ)」とのこと。ご本家、鹿島神宮と同じで剣がご神体なのですね~~。 いや~~、この日この神社でね、なんか良くわからないけど、体と心がふわあ~~っと軽くなって喜びにみっちみちに満たされる感覚になりました。 参道途中の橋がかかった池も、特別透き通っているわけでもないのですが(見た感じはそれなりに濁ってるしね)、ものすごく清浄で素敵なエナジー。池の両岸にはそれぞれ金毘羅さんと淡島さまが祀られていました。境内社には松尾さんもいらっしゃいました。ちょっと寂しげでしたが。 ご神木もね〜!すごいの。色んなご神木とか巨木見てきたけど、うおおおお神籬(※ひもろぎ:神霊が天下る木、神の依り代となる木)!!今まさに!!と思ったのはここが初めてかも。 このご神木の裏手に月読命の碑があり、さらにその裏のお山の斜面に二股のすごい木があって、写真のご神木と一直線に並んでて…ふぉおおおお!と思いました。 それにね、本殿の真裏には、自生したんじゃないかと思われる椿の小さな木が1本生えていて、そこに光が差している光景も神がかっててウルウルしました。 なんなのこの優しさ!繊細さ!そして満ち溢れる喜び! で!で!で!!!お山の磐座ですが、、見て下さいよ~~~~~。も~~~~~~。 自分の体をデイダラボッチ位に巨大化させて全身で磐座にハグしに行きたい気持ちでした。お山のすぐ隣は住宅街で、田舎とはいえ街中なのに、この清浄で満ち溢れた濃密な気は何なのでしょう(笑)いとしすぎる…たぎるぅ…いとしぃいい。神社も好きだけど、古代の神祀りの形式に惹かれるのよねぇえ。巨石、巨木、神南備山はどんなイケメン見るよりキュンとする。   (榊with土器にドキ) それにしてもこの場所は異様なキュン具合だったので、波長がめっちゃ合うのか、ご縁のある場所なのかもしれません。 (※でも後日訪れたらまた印象が違ったので、「あの時は」もののけ姫で言うところのシシ神様が降りてきていた時間帯なのかもしれない) いずれにせよ、前世とかがあるならば、古代でもきっと磐座萌え~とか言ってた厨二病だったんだと思う。  後から色々調べ物していて知ったのですが、白河鹿嶋神社のご神体山は『甕(みか)の森』というそうです。『甕(みか)』というワードに、なぜかとっても引っ掛かってしまって、あれ以来「甕(みか)」という言葉がずっと頭でループしております。「甕(みか)」は酒を醸造するのに用いた大きなかめのことらしいですが、それ以上の意味を沢山含んでいるように思います。武甕槌(たけみかづち)、天津甕星(あまつみかぼし)、三日月、、、etc Anna

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    陸奥国磐瀬郡鎮座 桙衝神社

    連休後半はお休み返上で出勤していたのですが、最終日は某様と福島県須賀川市の桙衝神社へ。(今回は写真あんまり撮らなかったので一部以前撮ったものを使用してます*) 鉾衝神社は亀居山をご神体山とした神社で、約2000年前に日本武尊(ヤマトタケル)が東征の折に柊の八尋の矛を突き立て武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を祀ったことに始まる伝承があります。ヤマトタケルがどーにも気になるっ!という時期がありまして、県内にもタケル伝承あるのかな?と調べていた時に一番最初に見つけたところでして、たまにドライブがてら会津から磐座にご挨拶にきてました^^ご祭神はタケミカヅチとヤマトタケルの二柱。 神名帳考証では穗己都久命(ほこつくのみこと)というワダツミの孫で安曇族の祖にあたる方が祭神となってます。 本殿背後の山頂突端部分に要石と呼ばれる磐座がありまして~、そこから古墳時代後期の祭祀遺物が出ているそうです。 神社の詳しいご由緒は大火で焼失してしまったようですが、弘仁12年には弘法大師がやってきて亀居山上の厳石に「不動」の梵字が浮かび上がったことから、霊地とし、麓に長光寺(現:長楽寺)を建立したなんていう伝説もあるという歴史ありげな神社です。江戸期には鹿島神社と呼ばれていたようで、山門には鹿島神社の表札が。 そうそう長光寺の弘法大師ですが、長光寺から丑寅の方角に夜な夜な光る塚があるから、怪しいと思って掘り起こしてみたら神鉾が現出したので秘蔵して、祭神のご霊代として崇めたそうですよ。しかも清和天皇の御代には蝦夷討伐で蝦夷人を殺し過ぎたことの、怨霊の崇りを恐れ、色々な所で祈祷したらしいのですがね、この長光寺でも衆を集め読経して、経典や法具などを埋めたそうです。 ご神体山の亀居山ですが、実際、上の磐座はとてもまろやかで女性的な瑞々しいエネルギーをしているのですが(個人的な感想ですよ)下の神社はかなり男性的で武張ったかんじ。麓・中腹・山頂でまったく違ったエネルギーです。 ところで私の中でヤマトタケルは東征したヒーロー(関東・東北側から見たら悪人なのか)ではなく、なんかどっか物悲しいイメージもあるのよね。実は「タケル」は中央の人間ではなく、もともと東側のもののふたちの総称で、、後から中央の歴史の都合のいいように作り変えられた説もあります。そう仮定したとして、きっとタケルズ(笑)達の中には、阿弖流為のように最後まで徹底抗戦の人もいただろうけど、中央に屈して仕方なく同族と戦うことになった人もいたのかもと妄想してみました。でも中央の蝦夷・東国・辺境経営の歴史と切っても切り離せないのがタケルさまかな。 東北のタケル関連の場所を巡っていると蝦夷の抑え…もともと蝦夷やそれらの人と融合していた人々の聖地であった場所に、中央からの圧力があったように感じます。抑えとしての神もしくは巫女は同族でなければならなかったのかもしれない、なんて妄想してしまいました。 某様からのご意見もあり、色々と妄想が広がりました。そして某様のおかげで、鬼瓦がリアルすぎるという新たな発見もw 上の磐座、私にとっては大変心地よいのですが、万人にお勧めできるかと言われると「ううむ」な場所ではあるし、またこれから更に暖かくなると「結界か?!」と思わんばかりの藪蚊の大群に襲われますので、お出かけの際はお気を付け下さいwww ともかく、古代の息吹を感じる場所です。

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    埼玉県さいたま市浦和 調神社(つきじんじゃ)

    先日、埼玉に行った際に時間があったので浦和にお邪魔してきました。浦和にはハトコが住んでおり、久しぶりの再会です。そしてそのハトコに案内してもらい、浦和の調神社(つきじんじゃ)というところにお邪魔してきました。 浦和駅から南西へ約500m。旧中仙道東側に鎮座されております。旧県社でご祭神は天照皇大神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱だそうです。 社名を調(つき)神社。地元では「つきのみやさま」と愛称されていて、開化天皇3年に創建されたとされるという…すごい古社ですよね。 そしてここの神社の特徴は鳥居がないことと、狛犬ならぬ狛ウサギがいること。 崇神天皇の時代に伊勢神宮の斎主・倭姫命が参向し、境内に神宮に献る調物を納めるための倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)の初穂米・調の集積所と定められた。この際、倭姫命の命により調の運搬の妨げとなる鳥居や門が取り払われ、現在に至るまで建てられていないとのこと。 調とは『租・庸・調』の調のことで、伊勢神宮へ納める貢(調)物のこと。また斎宮(いつきのみや)に由来するという説もあるそう。 中世、調が月と同じ読みから、月待信仰に結びつき、江戸時代には月読社とも呼ば れ、月神の使いとされる兎の彫刻が旧本殿や現在の社殿に、狛犬の代わりに兎の石像 が境内入口両側にあります。 コムズカシイ話はさておき、、、 「うはっ、溶けちゃうんですけど。」 って感じに個人的にとても心地よい神社でした。笑光と水と木々のエナジーにしばしうっとりとチャージされました。 水の気を強く感じたのは、縄文海進のころ、この辺りも海が近かったからでしょうか?開化天皇創建というご由緒や、倭姫命が出てくるのも相当古い時代からの重要なポイントだったのでしょうね。 探求しがいがあるだけでなく、魂まで癒された素敵なお社でした。 調神社、奥深いです。

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    西と東を繋ぐたび ② 女たちの情熱と誇り

    お昼御飯を終え、草津市矢橋に入り鞭崎八幡宮へ。神功皇后の妹君である高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)を祀っているというお宮だそうです。写真に収めることができなかったのですが、境内に沢山の大きな木が生えており、その木々の上になんと!鷺がたっくさん巣を作っているのです~。 神功皇后の事を聖母大神と呼ぶのですね。とっても素敵なお社でした。 実は、西に出発する前に「どこか行くべき場所があれば教えてください」と、うちの見えないスタッフ(笑)に問いかけたら甲冑姿の女性のイメージと『巴御前』という言葉が返ってきましたwwwなんで巴御前(源義仲の愛妾で、女ながらにも騎乗し勇猛に戦ったといわれる)よ。と無視していたのですが、奇しくも木曾義仲最期の戦い、宇治川の合戦の舞台となった地をウロウロ巡っていました。笑 この日は他にも野洲市の御上神社、竜王町の鏡神社、そして東近江市の阿賀神社(太郎坊宮ではありません)にも寄らせて頂きました。 特に御上神社はすごく行きたかった場所。訪れることができて、本当に良かった。 御上神社の御神体山である三上山も、女岳と雄岳に分かれているのだとか。女性性と男性性、陰と陽、この二つがあっての私たち、そして宇宙。 それにしても西と東のエネルギーってやっぱりちょっと違うな~って、土地と人々、お祀りされている神様を直に感じて思いました。面白かった^^ 奈良編の3に続きます。