古墳
古墳

自分の中の変態性を極めろ

タイトルがあれな感じですけど(笑)、変な意味じゃなく。その道を突き進んでる人たちって、ある意味変態的な「拘り」みたいなものがあると思うんですよ。そういう人たちのお話って本当に面白い。で、そういった興味がない人からは、まったく理解されないであろうその拘りや探究心を、どう高めてくかっていうのは、物を作る人間としての私の中の課題ですね。そんなことを思わせてくれるような、各界のスペシャリストたちのお話を先週末はお聞きすることができたので、こんなタイトルです。 先週末、実は会社早退して車すっ飛ばして糸魚川のミネラルフェア行ってきました(爆)糸魚川の滞在時間、約1時間。ミネラルフェアだけ見て帰るという強行軍。目的地にいる時間より移動の方が長いのはいつものことなので特に気にしてません。むしろお目当てのブースさんでヒマラヤ水晶お迎えできたことで大満足でした。去年別なミネラルショーでこの方のブースをお見かけして、石の美しさ力強さが頭に残っていて、ようやく糸魚川にて購入できました。 大きい方はサインジ谷のもの。中にバブル(気泡)が立ち込めておりとても神秘的な雰囲気。 小さいのはパールヴァティーのもの。中にファントムが入っています。どちらもこのクリアさとギラギラした輝きに惹かれました。そして表面のリモナイトが残ってる雰囲気が美しいですTT 少しだけですが、ブースのお兄さんから現地での買い付けのお話とか、石の話を聞けたのですが、そのお話しぶりから石への拘りが伺えて、その拘りっぷりが本当に気持ちがよかったです。現地の卸業者の手を通すと、すべてアシッド(薬品で洗浄)されてしまうそうで、そうなる前の水晶を村を回って買い付けているそうです。また、透明度や形、リッジの入り方などにもとても拘っていらっしゃって、そんな厳選された水晶たちを私たちへと橋渡ししてくれる透明なお兄さんの審美眼にただただ感激したのでした。 そして帰ってきて次の日は、喜多方市の灰塚山古墳のシンポジウムに参加してきました。 灰塚山古墳は福島県喜多方市にある前方後円墳です。2017年に男性の全身の人骨が発掘され、顔が復元されたことでニュースにもなりました。日本は酸性の土壌なので、古代人の骨が残っているのはとても珍しいことで、それが地元会津地方で出てきたことにはとても興奮しました。そもそも会津地方の古墳時代以前の歴史にとても興味がありまして、そのころどんな人たちが会津に住んでいたかを知ることができればとずっと思っていました。灰塚山の発掘を指揮した東北大学の辻秀人先生の発掘調査報告書も読んでおり、そろそろ第9次の発掘調査報告書がネットでも読めるころかな?検索していたら、なんと上記のシンポジウムが開催されることを知りました。 考古系のシンポジウムなんて行ったことないし、私なんかが聞きに行っていいものなのかわからず、発掘の仕事をしている友人に「シンポジウムとは?」「素人参加していいの?」と面倒なLINEを送ってしまいましたが、結果、聞きに行くことができ本当に良かったです!Sさんごめんなさい!! 今回は発掘調査の報告だけでなく、各分野の第1線を走る先生方のDNA解析や安定同位体分析の結果や、人類学的な観点などから、埋葬された人物像に迫るお話を聞くことができました。先生方によるパネルディスカッションもあり、無料でいいの?!ってぐらい本当に本当に面白かったです。メモ取りまくり。 DNAや骨の成分などから食べていたものや時代、ストレスがあるかないかが分かるなんて面白い時代になりましたよね。(いつの人間だ)まるで海外ドラマのNCISの世界。ドラマの中でアビーがやってることだぜ。。。 それと、古墳時代の灰塚山の人骨のDNAが縄文の影響は残っているとはいえ、現代人の我々ととてもよく似ているということに改めてミトコンドリアDNAのハプログループのグラフを見て驚きましたねー。 「こんなにも僕たちは縄文人と違う。」 という教授の言葉が何だかとっても印象的でした。もちろん私たちの中に縄文のDNAは受け継がれているのだけど、分かる形で、こんなに違うんだということを認識できたのがよかったな。 緻密な作業を丁寧にやる。こだわりを持って、美しい仕事をする。そうすると見える世界がある。 というのはどの分野もそうじゃないでしょうか。先週末、各界のスペシャリストから学んだことです。今週末もとあるスペシャリスト達とお会いしてきます。今日は楽しみとドキドキで眠れないかもしれない。(寝るけどね)またブログで報告しますね。そして色んな製作をがんばります。。皆様お待たせしていてすみません。。。orz

安久津八幡神社 (山形県東置賜郡)

山形県東置賜郡高畠町安久津2011北緯38度0分30秒 東経140度13分7秒 祭神 : 誉田別命創建 : 貞観2年(860年)   <由緒・歴史>安久津八幡神社は、貞観2年(860年)、慈覚大師が豪族、安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建てたのが始まりと言われ、後、平安後期に奥州平定のため、源義家が、戦勝を祈願して、鎌倉鶴岡八幡を勧請したと伝えているが、もとより定かではない。生い茂る樹木に囲まれ苔むす石畳参道の入口左手に、端麗な姿の三重塔、参道途中に舞楽殿、その奥に本殿がある。この三建造物は県の指定文化財となっている。 三重塔は寛政9年(1797年)に再建されたもので、初建は、寛永2年(1625年)といわれている。方三間造で銅版葺き、置賜地方唯一の層塔である。 舞楽殿は、室町末期のものといわれ、方一間宝形造、茅葺きである。毎年5月3日には、倭舞(やまとまい)、9月15日には延年の舞が気品高く、古式豊かに舞われる。本殿は、三間社流造、茅葺きである。 境内には、鐘つき堂・流鏑馬的場跡などがあり、裏山一帯には、安久津古墳群(鳥居町支郡)十数基が点在している。そのほか奥の院の洞窟などがあり片葉の葦、爺婆石、弘法清水などの伝説も残っている。町歴史公園の東に位置し、神社西方の山は5千本ほどのつつじで彩られる。境内の東側には、郷土資料館がある。また、周辺を歴史公園として整備し、「うきたむ風土記の丘」の中核施設として県立考古資料館がある。~山形県高畠町HPより~ 貞観二年(860)慈覚大師が安久津の豪族安久津盤三郎の協力で阿弥陀堂を建立、金蔵院として信仰を集める。永承六年(1051)源義家が安倍一族討伐の命を受け二井宿峠を越えて当山に入り戦勝を祈願し大勝利を得た(前九年の役)寛治元年(1087)再度金蔵院に立ち寄り戦勝を祈願し大勝利を得た(後三年の役)そこで鎌倉の由比郷より八幡神を分霊してお祀りしたのが安久津八幡神社の起こりと言い伝えられている。源氏の氏神八幡神に甲冑や刀を奉納、別当神宮寺・学頭金蔵院・衆徒頭千殊院始十二坊を置き、神官社家三十余人を配し、神仏両部の祭典儀式が定められていた。以後、長井・伊達・蒲生・上杉と歴代領主により保護され、社殿の造営や社領等の寄進が行なわれてきた。鎌倉時代から室町時代にかけて院や坊の最盛期修行僧の能海・堪忍等の写経筆跡が神奈川県「金沢文庫」に残っている。伊達氏の尊崇特に篤く広大な社領を寄進される。「独眼竜政宗」は重臣「片倉小十郎」をもって総裁に任じ神務までも司り、隆盛を極めた。伊達氏に変わり蒲生氏が領主になると社領は没収され、社頭は衰運するが祭祀は継続された。文禄三年(1594)より上杉家の領地となり寛文四年(1664)に天領となる。寛文十三年(1670)に社領五十石を賜り明治三年(1870)まで続く元和元年(1615)拝殿火災 元和三年(1617)拝殿再建元和五年(1619)本殿焼失 寛永七年(1630)本殿再建元文二年(1737)寛保三年(1743)火災により旧記・宝物等焼失宝暦五年(1755)大飢饉の中現在の社殿が再建される明治四五年(1912)今の社務所にあった金蔵院が火災で焼失 ~安久津八幡神社公式サイトより~   三重の塔や、茅葺屋根の舞殿・本殿など見ごたえのある建築。雰囲気のある静かな佇まいの神社。 神社は上の写真を見て頂いてもわかるように、山と平野の境にあり、山がコの字型に神社を取り囲んでいます。境内と山(八幡山)の中腹などには、7~8世紀ごろの古墳が12基あるようです。(鳥居町支群)いずれも終末期の円墳で南に石室が開口しています。この古墳群は安久津古墳群の一部で、近くには他にも古墳や、洞窟遺跡などが点在しているようです。置賜郡が古くから栄えていたということを物語っています。 ↑神社脇の古墳。雪で近寄れず。玄室が開口しているのが遠目にも見えます。 山の頂上には奥の院があるようで、洞窟になっているらしい。行かれた方のブログ写真を見る限り、なかなか素敵な磐座のようです。こちらに訪れたことは過去二度。最初に訪れたのは10年前ぐらいの夏、その頃はまだ古墳にそれほど興味がなくスル―してしまったのでした。次に訪れた時は雪で山への道が閉ざされており、古墳も奥の院にも行けなかったので、また時期を改めて散策したいと思っています。 ↑そしてこちらの狛犬はとってもキュート♡なのである。