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    観音岩 御蔵入三十三観音20番札所 川島 岩戸堂(福島県南会津町)

    福島県南会津郡南会津町藤生北緯37度10分11秒 東経139度43分57秒 祭神 : 聖観音菩薩創建 : 未詳 <由緒・歴史> 観音堂は村北六町山の中腹岩窟の中に観音を安す(新編会津風土記)   川向の山御坂難所有。三町余所に険のくさりをとらひ登る、岩窟に御立(南山三十三観所巡礼歌集)   南会津町川島宿にあった旧南照寺の修験者が修練した岩山、頂上一帯は見事な巨岩となっており、観音岩と呼ばれています。中腹の穴の開いた大きな岩に御蔵入三十三観音の二十番札所となっている岩戸堂がひっそりと立つ。川島宿に位置する旧南照寺の別当である川島家は蒲生秀行時代に南会津50箇寺の取締りを任せられていたそうで、南会津の修験道では大きな勢力を持っていたようです。 川島 岩戸堂となっていますが、所在地の住所は藤生(とうにゅう)地区となっており、源義経やイザベラ・バードも立ち寄ったという川島宿の川向いにある集落の小塩(こしゅう)の山となっています。入り口ならびに、お堂までの参道も踏襲が分かりにくくなっており、獣道のようなところを進んでいくほかないのですが(※現在入り口だと思われている場所…道路わきの石碑が立っている場所…は本来の入り口ではなく、岩戸堂に登るための近道で、本来はも別に入口があるそうです)そこまで難しい山ではないので、山に慣れた人であれば登るのは難しくなさそう。ただ斜面が急で上は一帯が岩場になっているので、滑落などには注意が必要だし、あまり人の入らない山なので、熊などの野生動物にも注意したいところです。そして集落の山でもあるので、一人での登山は避けられたほうが良いと思います。 ※御蔵入(おくらいり)=江戸時代の幕府直轄領の呼称で、南会津郡全域から栃木県藤原町の五十里湖までで、約五万五千石の地域が、「南山御蔵入領」として定められました。 ※御蔵入三十三観音=三十三の姿に身を変えて衆生(しゅじょう)を救うといわれる観音信仰から、平安時代に始まったとされる三十三観音巡りですが、会津には保科正之の時代、寛政二十年(1643)に札所が制定されました。それに遅れること約50年、御蔵入三十三観音は、領民からの発願で元禄11年(1698)に制定されました。人々は田畑の仕事が一段落した7月頃に、三十三観音札所を巡礼して回ったそうです。   入り口にある石塔から右手に山へ入っていく、途中枯れた沢のようなところを越えたあたりから、急な斜面を左手に登っていくと、なんとなく踏襲が見えてきます。それを辿ってしばらく登ると、だんだん岩場になってきて、前方に一際大きな巨岩が見えてきます。 近づくと中腹に穴の開いた大きな岩場が、細井敬介氏の著書「御蔵入三十三観世音」によると、これは水成岩だそう。岩場に人工的に彫られた階段のようなものがあり、それを備え付けられているワイヤーのようなものを辿って登ると、岩窟に木製の立像の納められたお堂があり、右の岩窟にも小さなお堂が、こちらは石の座像が安置されています。 集落の人の話によれば、岩戸堂のお堂の下は空洞になっており、ご本尊はこの穴の中に安置されているとのこと。お堂が立つ板の下が空洞ということでしょうか?またこちらは空洞になっているため、岩を叩くと音が響くことから、太鼓岩と呼ばれているそうで、確かに反響音があります。しかしながら、ここから左手のほうへ巨岩をまわりこむように奥へ進むと、更に大きな岩窟の広いスペースがあり、こちらにも岩に埋め込まれるような形でお堂があり、岩の中の空洞という意味ではこちらも同じなので、こちらが太鼓岩なのかな?(※追記 下記の場所がどうやら太鼓岩のようです↓) またこちらの岩窟の向こう側も更に岩場が続いており、回り込めば更なる巨岩や奇岩を見ることが出来ます。 頂上一帯がそういった雰囲気です。   近所に彼氏が住んでいたので、この場を知ることができ、磐座&巨石好きの探検心でこちらに登らせて頂きましたが、まさかこんなに立派な岩山だとは知らず、初めて登った時にはとても感激しました。こういった立派な磐座と信仰の場が手つかずの状態で歴史から忘れ去られ、眠っているということには、寂しさを覚えるものの、このまま秘密の場所として在って欲しいような不思議な気持でもあります。 また集落の人の話では、山の奥に古墳や石器~縄文時代の遺物が出る所や、他にも色々発見があったそうで調査をしているところだそうです(この地域での古墳は極めて珍しいです)、この地方では取れない黒曜石の矢じりや、加工する前の黒曜石の塊なども出ていることや、この場所を管理していた渡部家が二十数代続いていることなどからも、岩戸堂としての歴史は江戸期に入ってからかもしれませんが、古来よりこのあたりは神聖な場所として在ったかもしれないなあと思うと、とてもロマンを感じる場所です。   お堂近くの岩の上から見える景色。遠景に川島宿が見えます。 こちらは奥の岩の上から見える景色。  右手前に地域のワラビ園である鋏山と、奥に鬼伝説の残る七ヶ岳が見えます。   ※2017.6.18 集落の人から聞いた話を更に加筆修正しました。

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    兄貴とめぐる磐座&猪苗代湖のたび

    先日、千春兄貴が福島にいらっしゃったので、磐座&猪苗代湖巡りツアーを決行しました☆ 過去にも何度か兄貴には会津~福島に遊びに来て頂いておりまして、またこの地にお迎えできること嬉しく思います。 兄貴だけでなく、西の皆様やご縁の方に福島に足を運んでもらえるのは嬉しいことです。今後も全力で福島観光大使(お連れするところはめちゃくちゃマニアックな場所限定)させていただきますっ。 そしてこの日、最初に訪れたのはペグマタイトの白い磐座。こちらは阿武隈山脈系のペグマタイトの岩盤が露出しており、それがそのままご神体の磐座になっているとっても珍しい場所。神社がある場所は、丹伊田といい近くには鬼生田(おにうだ)という地名もあることから、丹生(にう)、丹=水銀を思い起こさせます。水銀が取れたというような話は調べても出てこないし、鬼生田の名前も昔ここに田村麻呂に退治された鬼が住んでいたということが名前の由来みたいですが、古代、ここには水銀や製鉄に関わる一族が住んでいたのかもしれないとこっそり妄想しています。。笑それにしても見事な磐座~、ほんといつ来ても光がいっぱい降り注いでいる気持ちの良い場所です。兄貴が「春のような場所」と仰ってたけど、まさに。しばらくボーっと佇んでおりました。 そこから移動して某所へ。笑 こちらは県内でもわりと有名な巨石群のあるお山なのですが、春にハトコと来た時に、人間の利己的な想念によって美しい自然と巨石がここまで無力化する様を見せつけられ「ナ二ココキモチ悪いw」となった場所。はい、ペグマタイトで天国を見て頂いた後は地獄へお連れいたしました(笑)先月、アフガニスタン展を見た時も思いましたが、人間の利己的な想いが自然や文化を簡単に破壊してしまうということ。それが世の常だとしても悲しいものです。奥の遥拝所とその下にある雨乞いの場所だけ、古代の穏やかだった時間とエナジーが残されています。ここだけでもこれからの世代も繋がってゆきますように、との思いで瞑目しました。 地獄山(笑)から最大の目的地である猪苗代湖へ。 兄貴、何かを召喚するの図wwではなく、猪苗代湖からお仕事をするの図。兄貴曰く「猪苗代湖は光のエネルギーが強い湖。」だそう。この日も風と空が凄かったな~。後ろから眺めつつ、猪苗代湖とご縁のあるヒトをこちらにご案内するお役目もあるのかもしれないと改めて思った1日でした。 最後に訪れたのは、水と森のエナジーの気持ちの良い場所^^ 1枚目はここのヌシ様^^いつもここ来るとこの木に鳥が止まるのはそのせいだったのかとすごく納得~。 震災の年に、「ヒトがいなくなっても自然は美しく、そして続いてくものなんだ。」と強く感じる瞬間がありました。地球に間借りさせて頂いている私たち人間の残酷さ、哀しさと、そしてそれを飲み込むかのような畏怖すべき自然の美しさ。人間色が薄い(笑)兄貴と話しているとそんなことを思い出したり、考えたりしてしまいます。 こういった美しい場所が未来にも存在し続けていけますように。 兄貴、ご一緒で来て楽しかったです^^ありがとうございました!

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    トリニティよ、時を動かせ

    先日、7月11日から13日までの3日間、京都の汝吾賀(ナーガ)のお二人、セレーナMariaさんと中将ゆみこさんが会津にいらしてくださいました^^お二人を連れてこちらのメンバーと会津や新潟の土地を廻ってきました。私があちらにお邪魔している時はいつもお世話になっているお二人を、大好きな場所にお連れすることができ嬉しく思っております。 1日目は、猪苗代湖と裏磐梯の湖水巡り^^ ※写真は表から見た磐梯山と裏から見た磐梯山。 会津も歴史の深い場所ですが、磐梯山の噴火で出来た裏磐梯の湖水と森たちは、人の歴史の重たさが一度リセットされたかのような軽やかさと清清しさで。 自然の三位一相、死と再生のプロセス。新しいはずの湖水や森はさながら太古にタイムスリップしたよう。  五色沼(毘沙門沼)の水がキラキラ輝いていました↑ ◇ 2日目は、足を延ばして新潟は弥彦神社へ。ここには書ききれないようなミラクルとミステリー続きな1日でした。笑去年、会津の三人で弥彦に通い詰めていた時期がありましたが、その時やり残したことの続きが思いがけず、お二人の力を借り、為されることとなり、驚きの連続でした。 今まで訪れた弥彦の中で一番穏やかな弥彦でした。龍たちもたくさん来ていて~~^^ 会津の三人も三者三様に時空や次元を超えて関わっていたのだなあとしみじみ感じていました。   ※反対側の多宝山からも不思議な雲が伸びていました。太陽の周りに日輪も^^  ※たまゆら^^ そして今回、初めてとある場所を訪れました。弥彦の日本海側にある妻戸神社近くの、とあるお寺。 ここには最古の即身仏があるそうです。時間が遅くて即身仏は見れませんでしたが、即身仏という時を止めた象徴があるような場所で、けれども反対に、『時やエネルギーのフローを止めてはいけない。自然の摂理=トリニティよ巡り続けろ。』と、なんとなくではありますが。そう強く感じていました。 最後には野積の浜に出て、みんなで大人の夏休み。ここは弥彦の神が上陸した浜だと言われています。美しすぎる空と海^^ 今年初の海ですよ~~。海水に浸かったの何年ぶりかな?^^ 良いミソギになりました~。 ◇ そして最終日は、地元の名もなきお社へ。町史に少しだけ記載があるだけの小さなお社ですが、この大きな磐座大好きで良く通っています。実はお二人には秘密にしていたのですが、お二人を必ず連れてくるからね~と前々から約束していたのでした。 そこから移動して郡山市は湖南方面へ。山の中にある隠津島神社へ。ここも磐座がご神体のお社。 沢山の蝶に迎えられ、美しい森と水のエナジーに癒されるひと時をお二人と過ごすことができ、嬉しく思います。 最後に立ち寄った猪苗代湖は初日と打って変わって、空の雲の色を写し、白銀の世界。天鏡湖という別名もあったなぁと改めて思っていたのでした。写真だと美しさが全然伝わらなくて無念です!笑 お二人にぴったりのまるで女神のような湖と磐梯山でした。 ちょっと早めの夏休みをお二人と、会津のメンバーと、自然いっぱいの古代のエナジーを感じながら過ごすことができ本当に楽しかったし、嬉しかったです~!本当にありがとうございました!!! Anna

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    白河総鎮守 白河鹿嶋神社

    前回の記事で、桙衝神社にいってきました。と書きましたが、この日実はもう一箇所足を延ばしていました。福島県白河市の白河鹿嶋神社です。 今回思いがけず訪れる事と相成ったのですが、、ご一緒していただいた某様とわたくし、素晴らしいお社で感激しました。 今まで訪れた地方の神社でTOP3…、いやある意味ナンバー1の心地よさでした。 まだ魂の半分そっちに行ってる感じです(危ない)え~と、真面目にレポしようと思ったのですが…この場所を言葉で理知的に語ることができないぐらい、感覚的な感動に満ち溢れていたので、今回は私の超絶ハイなテンションをお楽しみください。 白河鹿嶋神社も前回の桙衝神社と同じで、本殿裏手にお山と磐座のある神社です。こちらも古代からの祭祀が行われてきたとのこと。社伝としての創祀は宝亀年間(770年~780年)光仁天皇の時代。丁度この頃、東北は蝦夷の伊治呰麻呂の起こした宝亀の乱が起きていました。平定のため派遣されていた、陸奥鎮守副将軍の百済王俊哲(くだらのこにしきのしゅんてつ)が桃生・白河郡11社に戦勝祈願したと残っており、白河鹿嶋神社は、その時の1社なのではないかと思われます。 その後大同2年(811年)に坂之上田村麻呂が蝦夷征伐の際、改めて鹿島大明神を勧請したそうです。この鹿島さんも、桙衝神社と同様に磐座(古代祭祀)と蝦夷征伐がセットになっています。 ご祭神はタケミカヅチ。続日本紀によると御神体は、「小田切」・「瀬上」の二剣で、「韴霊神剣(ふつのみたまのつるぎ)」とのこと。ご本家、鹿島神宮と同じで剣がご神体なのですね~~。 いや~~、この日この神社でね、なんか良くわからないけど、体と心がふわあ~~っと軽くなって喜びにみっちみちに満たされる感覚になりました。 参道途中の橋がかかった池も、特別透き通っているわけでもないのですが(見た感じはそれなりに濁ってるしね)、ものすごく清浄で素敵なエナジー。池の両岸にはそれぞれ金毘羅さんと淡島さまが祀られていました。境内社には松尾さんもいらっしゃいました。ちょっと寂しげでしたが。 ご神木もね〜!すごいの。色んなご神木とか巨木見てきたけど、うおおおお神籬(※ひもろぎ:神霊が天下る木、神の依り代となる木)!!今まさに!!と思ったのはここが初めてかも。 このご神木の裏手に月読命の碑があり、さらにその裏のお山の斜面に二股のすごい木があって、写真のご神木と一直線に並んでて…ふぉおおおお!と思いました。 それにね、本殿の真裏には、自生したんじゃないかと思われる椿の小さな木が1本生えていて、そこに光が差している光景も神がかっててウルウルしました。 なんなのこの優しさ!繊細さ!そして満ち溢れる喜び! で!で!で!!!お山の磐座ですが、、見て下さいよ~~~~~。も~~~~~~。 自分の体をデイダラボッチ位に巨大化させて全身で磐座にハグしに行きたい気持ちでした。お山のすぐ隣は住宅街で、田舎とはいえ街中なのに、この清浄で満ち溢れた濃密な気は何なのでしょう(笑)いとしすぎる…たぎるぅ…いとしぃいい。神社も好きだけど、古代の神祀りの形式に惹かれるのよねぇえ。巨石、巨木、神南備山はどんなイケメン見るよりキュンとする。   (榊with土器にドキ) それにしてもこの場所は異様なキュン具合だったので、波長がめっちゃ合うのか、ご縁のある場所なのかもしれません。 (※でも後日訪れたらまた印象が違ったので、「あの時は」もののけ姫で言うところのシシ神様が降りてきていた時間帯なのかもしれない) いずれにせよ、前世とかがあるならば、古代でもきっと磐座萌え~とか言ってた厨二病だったんだと思う。  後から色々調べ物していて知ったのですが、白河鹿嶋神社のご神体山は『甕(みか)の森』というそうです。『甕(みか)』というワードに、なぜかとっても引っ掛かってしまって、あれ以来「甕(みか)」という言葉がずっと頭でループしております。「甕(みか)」は酒を醸造するのに用いた大きなかめのことらしいですが、それ以上の意味を沢山含んでいるように思います。武甕槌(たけみかづち)、天津甕星(あまつみかぼし)、三日月、、、etc Anna

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    陸奥国磐瀬郡鎮座 桙衝神社

    連休後半はお休み返上で出勤していたのですが、最終日は某様と福島県須賀川市の桙衝神社へ。(今回は写真あんまり撮らなかったので一部以前撮ったものを使用してます*) 鉾衝神社は亀居山をご神体山とした神社で、約2000年前に日本武尊(ヤマトタケル)が東征の折に柊の八尋の矛を突き立て武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を祀ったことに始まる伝承があります。ヤマトタケルがどーにも気になるっ!という時期がありまして、県内にもタケル伝承あるのかな?と調べていた時に一番最初に見つけたところでして、たまにドライブがてら会津から磐座にご挨拶にきてました^^ご祭神はタケミカヅチとヤマトタケルの二柱。 神名帳考証では穗己都久命(ほこつくのみこと)というワダツミの孫で安曇族の祖にあたる方が祭神となってます。 本殿背後の山頂突端部分に要石と呼ばれる磐座がありまして~、そこから古墳時代後期の祭祀遺物が出ているそうです。 神社の詳しいご由緒は大火で焼失してしまったようですが、弘仁12年には弘法大師がやってきて亀居山上の厳石に「不動」の梵字が浮かび上がったことから、霊地とし、麓に長光寺(現:長楽寺)を建立したなんていう伝説もあるという歴史ありげな神社です。江戸期には鹿島神社と呼ばれていたようで、山門には鹿島神社の表札が。 そうそう長光寺の弘法大師ですが、長光寺から丑寅の方角に夜な夜な光る塚があるから、怪しいと思って掘り起こしてみたら神鉾が現出したので秘蔵して、祭神のご霊代として崇めたそうですよ。しかも清和天皇の御代には蝦夷討伐で蝦夷人を殺し過ぎたことの、怨霊の崇りを恐れ、色々な所で祈祷したらしいのですがね、この長光寺でも衆を集め読経して、経典や法具などを埋めたそうです。 ご神体山の亀居山ですが、実際、上の磐座はとてもまろやかで女性的な瑞々しいエネルギーをしているのですが(個人的な感想ですよ)下の神社はかなり男性的で武張ったかんじ。麓・中腹・山頂でまったく違ったエネルギーです。 ところで私の中でヤマトタケルは東征したヒーロー(関東・東北側から見たら悪人なのか)ではなく、なんかどっか物悲しいイメージもあるのよね。実は「タケル」は中央の人間ではなく、もともと東側のもののふたちの総称で、、後から中央の歴史の都合のいいように作り変えられた説もあります。そう仮定したとして、きっとタケルズ(笑)達の中には、阿弖流為のように最後まで徹底抗戦の人もいただろうけど、中央に屈して仕方なく同族と戦うことになった人もいたのかもと妄想してみました。でも中央の蝦夷・東国・辺境経営の歴史と切っても切り離せないのがタケルさまかな。 東北のタケル関連の場所を巡っていると蝦夷の抑え…もともと蝦夷やそれらの人と融合していた人々の聖地であった場所に、中央からの圧力があったように感じます。抑えとしての神もしくは巫女は同族でなければならなかったのかもしれない、なんて妄想してしまいました。 某様からのご意見もあり、色々と妄想が広がりました。そして某様のおかげで、鬼瓦がリアルすぎるという新たな発見もw 上の磐座、私にとっては大変心地よいのですが、万人にお勧めできるかと言われると「ううむ」な場所ではあるし、またこれから更に暖かくなると「結界か?!」と思わんばかりの藪蚊の大群に襲われますので、お出かけの際はお気を付け下さいwww ともかく、古代の息吹を感じる場所です。