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    秘めたる祈りは熱く、鋼のごとく

    春は庄内に行きたくなる。 …のかわからないですけど、 意図せず先日、去年と同じ時期に山形は庄内地方へふらりと行ってきました。その前に行った時も春だったな。去年は鳥海山近辺をぐるぐる回って、丸池様とか釜磯の湧水見たり、秋田側まで足を延ばして、元滝見たりして、、とにかく虜になってしまったのでした。奈良や糸魚川に恋に落ちたのと一緒の感覚ですね。ご飯もおいしかった。庄内スキ♡ 鳥海山・出羽三山スキ♡ 庄内の自然のエナジー最高♡その土地その土地のエネルギーってありますが、肌になじむ感じ?なんて言ったらいいのか、お懐かしうございますぅ、みたいな感じです。(更に謎) そして先日のこと、行きたいな~と思いつつ、1年ぶりの庄内。来たはいいけど、月山も湯殿山も本宮まで雪で行けないだろうしなーと思って、なんとなく湯殿山の瀧水寺大日坊に訪れてみました。 500円の拝観料で簡単なお祓い(若めの方がしてくださいました)と、大日坊の歴史を高齢のお坊さんが説明してくれたんだけども、お話し前のご祈祷が最高にすっきりしたのよ。「六根清浄~」の独特のリズムと大きな梵天をパッパッと振ってもらったら頭がスーッとしていって。テレビとかで修験の方が「懴悔(さんげ)懴悔(さんげ)六根清浄~」って唱えながらお山を駆けているの見るとなんか知らんけどあのリズムにウルっときちゃうので、たぶんその感覚なんですけど。 高齢のお坊さんによる大日坊の歴史のお話は、ちょっと偏ってる部分あるなー、商売っ気あるなー(笑)と、思うところはあったものの、講談聞いているみたいですごく面白かったです。羽黒山の出羽三山神社では出羽三山は崇峻天皇の皇子である蜂子王子が開山としていますが、大日坊は大同2年に空海が開いたと言われているそうで羽黒山側と湯殿山側で見解が違うのも面白いです。 明治の神仏分離・廃仏毀釈で、羽黒山などが神社に変わった中でも、ここはお寺であることを変えず、かなり大変な目にあったようで、そしてお坊さんの口ぶりから、どうも羽黒山と確執があるような雰囲気を感じました。それと明治政府への恨みたいなのを感じて、あれ?これこの感じ良く知ってるな、なんだっけ、常日ごろ味わってるやつ… そうそう…地元会津と一緒じゃん! って思ったけど、そもそも庄内は戊辰戦争で会津同様に旧幕側の急先鋒(会庄同盟っての組んでましたわ)で、その根底にある気骨のようなものは、似てるんだなと気づきました。庄内って勝手ですけど自然が雄大なだけにおおらかなイメージがありましたが、奥に反骨精神のような鋭い熱意のようなものがあるのだと感じてびっくりしたのでした。 こちらのお寺、真如海上人という方の即身仏もいらっしゃいます。即身仏に対してあまりいいイメージがなかったのですが、即身仏の説明や神仏分離で大変だった話とか色々聞いていたら、庄内のどういった歴史や風土から、即身仏が生まれたのだろうと妙に興味がわいてきて、帰ってからネットとか文献読み漁って色々調べてしまいました。 以下、ながーくなりますが、お付き合いください。笑 出羽三山は今は月山・羽黒山・湯殿山ですが、その昔は、湯殿山は含まれなかったようで、(中世頃までは鳥海山・月山・葉山のことを三山と言ったという説もあり)湯殿山は山のことではなく、現在湯殿山神社のご神体となっている巨岩のことを言ったそうで、湯殿山は出羽三山それぞれの「総奥の院」とされたそうです。湯殿山麓には別当寺として湯殿山派4ヶ寺(注連寺、大日坊、大日寺、本道寺)というのが存在していて、4ヶ寺の宗派は江戸時代の寛永中期(1624-1644)ごろには真言宗の影響が濃くなっていったそうです。 湯殿山4ヶ寺で活動した人々は、およそ三種類に分けられるようです。 清僧(正式な僧侶)修験者一世行人 この中でも湯殿山を中心に活躍した一世行人は、<一生をかけて修行する人々>とのことで、とても特殊な立ち位置だったようです。寺の中でのヒエラルキーは低く(低いというか別格というのが正しいのかな)修験者の入峰儀礼にも参加できず、寺での灌頂も受けられなかったので、修験でも仏の道でも上を目指すことはかなわなかったようです。湯殿山の修験者は、家を持ち妻帯し百姓などとしての仕事も持っていたようですが、一世行人たちは禁欲し肉食せず、行に専念していたとか。極寒期に山に入り、湯殿山の仙人沢や玄海に千日間籠り続け、水垢離し、木食行(肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)をしたそうです。そんな栄養状態良くない中での行で、湯殿山の仙人沢などでは、行の途中でたくさんの一世行人が亡くなっているようです。 即身仏の多くは、実は一世行人と呼ばれる人たちがなったもののようです。 少し話を戻しますと、出羽三山の羽黒山ももともとは湯殿山と同じ真言宗のお寺だったそうなのです。羽黒山中興の祖と言われる別当天宥法印が、徳川家の庇護を受けるために天台宗への改宗を行います。羽黒山側は湯殿山派4ヶ寺にも天台宗への改宗を求めますが、拒まれたため、裁判に発展したそう。 神仏分離以前に、ここで羽黒山との溝ができたんだな~と納得。そして湯殿山派は自分たちの真言宗としての正当性を求めるために、「開祖の空海に倣い、即身成仏を実践している」と宣言しました。そのために、そこから湯殿山派の行人たちは即身仏を目指すようになったのだそう。その証拠にそれ以前に即身仏になった人はいなかったそうです。 これを知り、とてつもない衝撃を受けました。 古代からお山の利権をめぐった宗教間でのなんやかんやを自然は、神々はどう見ていたのだろうと思うと眩暈がしますが、ただ、純粋なまでに行に打ち込む一世行人の姿には、頭が下がる思いです。 ある部分では柔軟にものごとに向き合っていくことが大切だと思っていますが、それには熱く鉄のような意志が心にあってこそだと。貫き通すことへの強い想い、を湯殿山の歴史から感じました。 それと明治の神仏分離で失ったものは、仏像や建造物のモノだけでなく、祈りの形というか、何かもっと別の大切なものだったのではないかというのも、すごく考えさせる庄内小旅行でもありました。雪が解けたら湯殿山の本宮や月山、鳥海山に登拝してみたいです。 長々と失礼しました!

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    安久津八幡神社 (山形県東置賜郡)

    山形県東置賜郡高畠町安久津2011北緯38度0分30秒 東経140度13分7秒 祭神 : 誉田別命創建 : 貞観2年(860年)   <由緒・歴史>安久津八幡神社は、貞観2年(860年)、慈覚大師が豪族、安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建てたのが始まりと言われ、後、平安後期に奥州平定のため、源義家が、戦勝を祈願して、鎌倉鶴岡八幡を勧請したと伝えているが、もとより定かではない。生い茂る樹木に囲まれ苔むす石畳参道の入口左手に、端麗な姿の三重塔、参道途中に舞楽殿、その奥に本殿がある。この三建造物は県の指定文化財となっている。 三重塔は寛政9年(1797年)に再建されたもので、初建は、寛永2年(1625年)といわれている。方三間造で銅版葺き、置賜地方唯一の層塔である。 舞楽殿は、室町末期のものといわれ、方一間宝形造、茅葺きである。毎年5月3日には、倭舞(やまとまい)、9月15日には延年の舞が気品高く、古式豊かに舞われる。本殿は、三間社流造、茅葺きである。 境内には、鐘つき堂・流鏑馬的場跡などがあり、裏山一帯には、安久津古墳群(鳥居町支郡)十数基が点在している。そのほか奥の院の洞窟などがあり片葉の葦、爺婆石、弘法清水などの伝説も残っている。町歴史公園の東に位置し、神社西方の山は5千本ほどのつつじで彩られる。境内の東側には、郷土資料館がある。また、周辺を歴史公園として整備し、「うきたむ風土記の丘」の中核施設として県立考古資料館がある。~山形県高畠町HPより~ 貞観二年(860)慈覚大師が安久津の豪族安久津盤三郎の協力で阿弥陀堂を建立、金蔵院として信仰を集める。永承六年(1051)源義家が安倍一族討伐の命を受け二井宿峠を越えて当山に入り戦勝を祈願し大勝利を得た(前九年の役)寛治元年(1087)再度金蔵院に立ち寄り戦勝を祈願し大勝利を得た(後三年の役)そこで鎌倉の由比郷より八幡神を分霊してお祀りしたのが安久津八幡神社の起こりと言い伝えられている。源氏の氏神八幡神に甲冑や刀を奉納、別当神宮寺・学頭金蔵院・衆徒頭千殊院始十二坊を置き、神官社家三十余人を配し、神仏両部の祭典儀式が定められていた。以後、長井・伊達・蒲生・上杉と歴代領主により保護され、社殿の造営や社領等の寄進が行なわれてきた。鎌倉時代から室町時代にかけて院や坊の最盛期修行僧の能海・堪忍等の写経筆跡が神奈川県「金沢文庫」に残っている。伊達氏の尊崇特に篤く広大な社領を寄進される。「独眼竜政宗」は重臣「片倉小十郎」をもって総裁に任じ神務までも司り、隆盛を極めた。伊達氏に変わり蒲生氏が領主になると社領は没収され、社頭は衰運するが祭祀は継続された。文禄三年(1594)より上杉家の領地となり寛文四年(1664)に天領となる。寛文十三年(1670)に社領五十石を賜り明治三年(1870)まで続く元和元年(1615)拝殿火災 元和三年(1617)拝殿再建元和五年(1619)本殿焼失 寛永七年(1630)本殿再建元文二年(1737)寛保三年(1743)火災により旧記・宝物等焼失宝暦五年(1755)大飢饉の中現在の社殿が再建される明治四五年(1912)今の社務所にあった金蔵院が火災で焼失 ~安久津八幡神社公式サイトより~   三重の塔や、茅葺屋根の舞殿・本殿など見ごたえのある建築。雰囲気のある静かな佇まいの神社。 神社は上の写真を見て頂いてもわかるように、山と平野の境にあり、山がコの字型に神社を取り囲んでいます。境内と山(八幡山)の中腹などには、7~8世紀ごろの古墳が12基あるようです。(鳥居町支群)いずれも終末期の円墳で南に石室が開口しています。この古墳群は安久津古墳群の一部で、近くには他にも古墳や、洞窟遺跡などが点在しているようです。置賜郡が古くから栄えていたということを物語っています。 ↑神社脇の古墳。雪で近寄れず。玄室が開口しているのが遠目にも見えます。 山の頂上には奥の院があるようで、洞窟になっているらしい。行かれた方のブログ写真を見る限り、なかなか素敵な磐座のようです。こちらに訪れたことは過去二度。最初に訪れたのは10年前ぐらいの夏、その頃はまだ古墳にそれほど興味がなくスル―してしまったのでした。次に訪れた時は雪で山への道が閉ざされており、古墳も奥の院にも行けなかったので、また時期を改めて散策したいと思っています。 ↑そしてこちらの狛犬はとってもキュート♡なのである。