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物語

良き占いは、その時には意味が分からなくても、心に残り続ける。
自分の中にたくさんの物語を蓄えている人が好きだ。
たった一瞬、たった一言の中に永劫のようなものが内包されていて、
些細なことが自分の人生の起点となったりもする。
当たるか当たらないか、というこのほうが多くの人にとって重要なことかもしれないが、
それよりも相手の中にある物語がこちらの心にどういった波紋を呼び起こすかということのほうに興味が向くし、
ずっと覚えてられるのは、そういった時の一言であったり空気感なのだ。

一瞬の永劫、というと、物語とは少し違うのだが、奈良の宇陀市を旅行した時のことを思い出す。
宇陀の地を夫と車で巡り、その日の最後に訪れたのは阿紀神社であった。
阿紀神社は元伊勢とも呼ばれる、倭姫の軌跡の場であり、
阿紀神社のある辺りは、阿騎野(あきの)と万葉集にも詠まれた歴史深い場所である。
その阿騎野に降り立ったのは日没と同時であったため、
うら寂しい境内には人の姿はなく、参拝を終え、早々に帰ろうと思ったところ、
老夫婦の運転する1台の車が境内に入ってきた。
こんな薄暗い時間に他県の者がうろうろしているのも怪しいかなと、そそくさと車に乗り込もうとしたところ、老紳士に呼び止められたのだった。
万葉集の歌碑を探しているのだが、知らないかとのことであった。
地元の者ではない我々が知る由もなく、力になれず申し訳ない旨を伝えると、そこから少し雑談になったのだ。
「どちらから?」と聞かれたので、「福島から来ました。」と答えると、老紳士は、自分の大学の時の親友が福島出身だったことを思い出したらしく、彼との思い出を話してくれた。彼の福島訛りが忘れられないと、とても懐かしんでくれたのだった。
交わした言葉はそれほど多くなかったし、文章にするとたったそれだけのことなのだが、言い表し得ない心の交感みたいなものを感じたのだ。
老夫婦が去った後、自分たちの車で隠れていたが、実はご夫婦が探していた歌碑は我々の真後ろにあったのだった。お二人には申し訳ないことをした。
柿本人麻呂の歌であった。
草壁皇子が身罷られて、人麻呂が皇子と思い出の地の阿騎野にて、在りし日を偲ぶ歌。

「阿騎の野に宿る旅人うちなびき眠も寝らめやも古思ふに」
 ー阿騎野に仮寝する旅人は、くつろいで寝入ることなどできるだろうか。これほど昔のことが思われるものを。

当時、草壁皇子が主人公である梨木香歩氏の小説「丹生都比売」を読了したばかりで、大宇陀の地や草壁皇子に勝手ながら大いなるシンパシーを感じていたころであったので、古代からの様々な時間と人々とが刹那に交わったようにも錯覚して、老紳士の顔は今はもう思い出せないのだが、あの瞬間の阿騎野での邂逅、あの土地に満ちた空気は、忘れがたい。
奈良の地を旅すると、よくそういう不思議なことが起きる。
古だけでなく現在をも含むあらゆる時が交差した物語が、そこらじゅうに息づいている不思議な土地だ。
この日の体験は、説明しにくいのだが、よき占いを受けた時の感覚に似ている。一瞬のうちにお互いとそれを包括する場と歴史の持っている物語が交差するという意味において。
自分の中に物語を持っている人の占いが好き、と言ったけど、物語のような占いが好きなのだと思う。占いは物語であり、占い師は語り部なのだ。

蛇足であった。表題に戻ろうと思う。
私は言葉を紡ぐのが好きだ。物語が好きなのだ。
でも“わたし”の中には語るべき物語がない、とも思う。
その傲慢なる無知性は、飽くなきまでに知り、蓄えようとする気概がないから。の一言に尽きるのだが。
物語を自分の肉として、幾度となく反芻し、瞬発的に繰り出せる人にとても憧れるのだ。
私は覚えが悪く、過去に読んだ小説も映画も、輪郭で捉えていて、細部は靄がかかっていてきちんと思い出せない。
それは所謂、老化というやつなのであるが、それだけではないのかもしれない。
自分のことを繊細だと人前で公言できるほど厚顔無恥ではないものの、とはいえ、私も大変繊細で硝子のハートで生きてきたなと、ふとした時に思う。繊細さへの防衛手段として、嫌なこと細かいことは忘却しようと努力してきてしまったということも、もしかしたら忘却を常習化させてしまっている一因になっているかもしれない、と思ったりもする。(いや、やはり老化なのであろう)

でも細かいことは忘れやすくなった半面、その時に感じた感情、イメージ、色、温度、空気感などというものは、昔から変わらずに本当によく覚えている。
しかしそれを物語として、言葉で説明しようとすると手のひらから零れ落ちる砂のごとしだ。
だからこそ、私は宝石を紡いで、何かしらの物語を降ろしてこようと思うのかもしれない。
私の中に物語がなくとも、石に物語を宿らせることはでき、違った形の語り部にはなれるだろう。それを強く信じている。

カテゴリー: BLOG 雑記

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