福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原2908北緯37度34分32.7秒 東経139度47分51.7秒 祭神 : 誉田別命 息長帯比売命 比咩大神相殿: 仲哀天皇 仁徳天皇 武内宿祢命創建 : 天喜3年(1055年) <ご由緒・歴史> 心清水八幡神社は高寺山南東に位置し、道路を挟んだ東隣には恵隆寺(立木観音堂)がある。社伝によれば陸奥守源頼義が天喜3年(1055年)にこの地に八幡神社を勧請したことがはじまりだという。現在の社殿は文久年間(1863~65年)に会津藩によって造営された。現在、神社には『塔寺八幡宮長帳』と称される長大な日誌と鰐口が保存されており、それぞれ国の重要文化財に指定されている。(Wikipediaより抜粋) 天喜3年(1055年)6月 源頼義・義家公が奥州征伐の時、山城国(京都)石清水八幡宮を当地に勧請し戦勝を祈った。功成り同5年義家公は社殿を建 て、恒例の神事や祭礼を定め河沼郡総鎮守と祭った。以来、旧領主はもとより官民ともに崇敬あつく、社殿は、金塗りの美をつくし、神主、社僧の奉仕により、 神領に神役を定めたこと現存の宝物によって証することができる。寛文7年(1667年)保科正之公は神社制度を改め、社僧を廃し仏像や仏具を祭らず用いず、古来の唯一神道に復し、会津5大社の一として会津大鎮守、当地方3万石の鎮護と祭った。また社殿の修覆は、藩主の寄進と定め、神事祭礼のため当村内に30石を社領とした。天保11年(1840年)12月、旧社殿炎上し、松平容保公は、藩費にて御造営、文久3年(1863年)に御造営が行われ、本殿(奥の院)は会津盆地を一望の翠山の山上に総欅材で会津藩最後の建造物である。明治6年(1873年)には、当郡唯一の郷社に列し、「塔寺八幡宮」を「心清水八幡神社」と改称した。大正13年(1924年)に至り県社に昇格した。また古くより戌・亥歳生れの一代守り神、卯の日が縁日であるから卯歳生まれの守り神である。 神泉 義家公が社殿建立の時、心身を清めるため禊の神泉を夢のおつげによって求められ、「心清々し(こころすがすがし)」と発せられたので、「心清水 (こころしみず)」と云い、これに因み「心清水八幡」と称える。また産子清水(おぼこしみづ)とも云い、神水にて粥を食すれば産婦の母乳に霊験ありとい う。西五百mにあり。 (社伝より抜粋) 境内社 : 稲荷社(倉稲魂命) 出雲社 (大国主命、事代主命) 箱根社 (市杵島姫命) 北野社 (菅原道真) 加茂社 (賀茂別雷命、玉依姫命) 伊勢宮 (天照大御神) 若木社 (少彦名命) 春日社 (天児屋命) <祭礼>毎月卯の日。例大祭、神輿渡御。初卯祭(はつうさい) 毎年、春は4月、秋は11月の初卯の日。 会津にも前九年・後三年の役による源頼義・義家親子の足跡が多く残っていますが、心清水八幡神社もそのひとつ。 大きな木が沢山生えているためか、鳥居の一歩中へ入ると凛とした空気が漂っています。拝殿の後方に本殿に上がる階段が伸びていて、山の中腹?開けたところに本殿が建っています。 不思議なことに、本殿より拝殿のほうに神々しさのようなものを感じるてしまうのは私だけ?笑 心清水八幡神社は高寺山の麓に座しており、東には立木観音で有名な恵隆寺が建っています。高寺山には、奈良に仏教が伝来するよりも前の、欽明天皇元(540)年、梁の国から渡来の高僧 青巌 (青岩とも) がやってきて寺を開いたという伝説があります。 また高寺山山頂には前方後円墳があるようです。この辺り一帯は青津の亀ヶ森古墳・鎮守森古墳などを含む古墳密集地域でもあります。只見川と阿賀川が合流するこの辺りは、古来より様々な人の往来があったことでしょう。