貪欲を生じ瞋恚をおこすことも、みな愚癡よりいでたり

三竦み:蛇はナメクジを、ナメクジは蛙を、蛙は蛇を恐れるということから、三者互いに牽制し合って、いずれも自由に行動し得ぬこと

三毒(三不善根):三毒は人間の諸悪・苦しみの根源とされている。貪ー貪欲(とんよく)ともいう。むさぼり(必要以上に)求める心。瞋ー瞋恚(しんに)ともいう。怒りの心。「いかり」・「にくしみ」と表現する。癡ー愚癡(ぐち)ともいう。真理に対する無知の心。「おろかさ」と表現する。


人間関係での人の闇というかどろどろした部分、欲みたいなものを、ここ最近がっつり覗く機会がありまして、
毒気にあたって「ひえ」ってなってたわけなのですが、笑。
でも人の闇を垣間見て、、「これでこそ人間よな。おもしれぇ。」ってわくわくしている自分もいて、自分に呆れる昨今です。

外から見ていて人間関係で身動きが取れない状態に陥っている様は、まさに三竦みの毒虫たちのようだなと、三竦みを調べていて思いました。なんかナメクジっていう象意が頻出していてね、ナメクジ調べてたの。

人間っていうのは、どうして重ねなくてもいい業をこんなに重ねてしまうのか。
仏教には三毒という考え方がありますが、三毒が過ぎることが業を重ねてしまう原因なのではと思うのです。
貪(とん)・瞋(しん)・癡(ち)、執着したり必要以上に欲することで、怒りや憎しみが生まれる、自分の本当の状態や事実を知ろうとしない愚かさで事態は悪化する。この無限ループなのではないかと思います。
三竦みも三毒の図も、動物や虫で表されているのが面白いですよね。
人間関係ってどんな関係性でも依存的要素が0ではないけれども、それぞれが自分の足で立って、大事な時には応援できる、助け合える関係でありたい。
助けるってことは、可哀想な自分、可哀想な相手を、私なら受け止められる、あなたなら受け止めてくれると思うことではない。
例え妙なパワーバランスで拮抗している関係性も、深く繋がりすぎるといざ離れようとすると痛みが大きくなる。でもお互いの真の幸せのためを思うなら、断ち切らなければ。

地獄の苦しみよりそこから抜け出す苦しみのほうが痛いような気がするのはなんでだろう。ぬるい地獄に浸かっていたほうが実は楽なのかもしれない。
でも私は血を流してでも地獄から抜け出せる選択を重ねていきたい。
(あ、救われたいわけではないので、死んだ時にお前は地獄行きって言われたらそれはそれで「まじか~(笑)」って言いながら受け入れることでしょう。)

私は人間として冷たいというか、大変にドライな人間だけれども、関わった人みんなが幸せになってくれればいいなとは思っているのですよ、それはそれは心から真面目に真剣に。
私を傷つけた相手でさえもいつかは幸せになってほしいと思っています。二度と私の前に顔は見せないで欲しいし、地獄には100万回落ちてほしいけど(笑)
泥沼に一緒に入って近くで手を貸すことはないかもしれないけど、少し遠くから祈るぐらいはさせてほしい。というか勝手にやっているね。

これを読んだ誰かも人間関係で悩んでいたりするのだろうか、何か心に残れば嬉しいかな。残らなくてもいいけどね。遠くで祈っているね。

執着といえば、安珍・清姫。道成寺の説話が日本の古典では有名だけれども。
人を想う心は素晴らしいものだけど、行き過ぎると、化け物になって相手も滅してしまう。恐ろしいことです。
自分を天に昇らせることも、地獄にとどまるのも、自分で選ぶことができる。
人間関係だけでなく、自分で選んできたからこういう今があると、胸を張って言えるような一つ一つの選択に誇りを持てたら良いと思うのでした。

道成寺縁起絵巻 道成寺所蔵