皆様コンニチハ。しばらく心身ともにバタンキュー(古い)しておりましたAnnaです。 夏場にトドメとばかりにHPに大打撃を受ける出来事が続いたこと、仕事の疲れやら何やらが重なり、頭では良く分かっていなかったものの、相当に肉体の力、、生命力が落ちていたようです。 肉体の力、もしくは生命力が低下すると、グラウンディングが甘くなって変なMPが上がるせいか、妖怪アンテナビビビ…が(笑)やけに敏感になっておりました。 不思議な時間でしたね、水の中に居るような、月の世界にいるような。人生の折々に時々訪れる、清濁ぐるぐるな、はざまタイムでした。 そうして、はざまタイムに、無意識に私が自分の幸せや自分の本質的なエネルギーにブレーキをかけてしまい、他者にエネルギーを明け渡してしまうようなことをする原因は、一体何なんだろうということをぼんやり考えていました。西洋占星術で見ると、魚座の要素が強いので、自分と相手と世界との境界が曖昧で、自分でも気づかないうちに入り込んだり入り込まれたりしてるんですが。結局、生命力薄くなってた件も、いつの間にか、見える見えざるに関わらず色んな存在にエネルギーチューチューさせていたというのがありました。 ひとつ、思い当たることがあるとすれば、今より若い頃に、他人の人生を左右するほど、相手を傷つけてしまったことがあり。その時に、私は明確に自分の感情とかもう見たくないものとかに鍵をかけるイメージングをしていたのですよ。自分の罪と真っ向から向き合うと自分が壊れちゃうから。。でもそれは奥深くに常にあるものなので、どっかでこんな私は幸せになっちゃいけないという想いがあったのだと思います。 でもここにメスを入れ無い限りは幸せになれないとかだったら、もうどうしていいか分らんし。加害者(大げさか)としてまず手放して良い物かもわからん。。わからんから鍵をかけたんだけど、これとどう向き合うかどうしたらよいのか…と思いあぐねていました。 徐々に心身も回復してきて、そいで某映画を観に行った先週の火曜日。映画の中で描かれる、過去に自分が犯した罪から、自分を犠牲にして他者を守ろうとする主人公が自分の輪郭に少しだけリンクしました。自分一人の幸せや命も貴いものなのに、自己を犠牲にすることは逃げているだけだという彼の師の言葉。けして哲学的な映画ではないと思うのですが、それでぼんやり開眼したというか。 自分が不幸になる状況を引き寄せていた、罪の意識。私は向き合う勇気がないから、裁かれる人を続けていたのかもな、と。 そう気付いた瞬間、ひとつの答えが出た気がしました。 「傷つけた相手がいるということを受け止めながら、自分のことも幸せにする。そういう覚悟を持つ。」 言葉にするとなんか軽薄な感じがするけど、きっとそういうことなんじゃないかなと思いました。これってすごく重いことだ。幸せになるって、重いことだ。そう思いました。 うん、ネガティブな意味じゃなくてね。「重みがある。」でも、いいんだけど、「重みがある」じゃ軽すぎる。重い、んだよ。と。これも適切な言葉じゃないなぁ〜。 なんか伝わるいい言葉ないかしら? 幸せになるという、その覚悟があれば、今起きている全てのことが解決する気がしました。 ん。でも重いと言っておきながらなんだけど。自己と他者と世界がふわっと幸せになることが一番の望みです。 なんちゃって。 長くなりました! 素敵な長月を! Anna
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先日、妹と旧・会津本郷町にある樹ノ音工房さんのカフェyuinobaへ行って参りました。 知り合いの娘さんが絵の個展をyuinobaさんでされていると聞き、出かけたのですが、お邪魔してみると、個展だけでなく、何か別なイベントもこれから開催されるところでした。白井明大さんという詩人の方の、『季節を知らせる花』のお話会というものでした。 失礼ながら白井さんのことよく知らなかったのですが、お茶とスイーツ付きという言葉に誘われ(笑)また、これも何かのタイミングだろうと、そのままイベントに参加してきました。 しかしながら、お話会が始まり、白井さんが手に取った自著を見てハッとしました。つい先日、本屋で見かけて気になっていた 『日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―』じゃないですか。あの本を書かれた方なんだ~と思って、まー、まずびっくり。 日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―白井 明大 有賀 一広 お花のお話ということだったのですが、白井さんがぽつりぽつりとお話する内容が、現状気になっていることなどと、あまりにもシンクロすることが多く。たまたま立ち寄ったつもりだったけど、姉妹そろって前のめりになりました。 詩歌の話や暦の話、月の話や土地の持っている雰囲気の話、民俗学にもかかるような話も展開されていてと~~~~っても楽しかった。咲いている美しい花のただ見たままを、日常のワンシーンを切り取ったような、さりげない歌が好きという白井さん。とあるお話会にて、『詩は自分の中にあるものをカタチにして外に出すのが詩なのではないか?』とのお客さんからの問いへの、白井さんなりの答えが何気ないことなのに、とても大きな意味がつまっていて感動しました。 以下に思い出せる範囲で書き留めます。 白井さん曰く、時間は過去・現在・未来と単純に縦軸じゃないということ、周りのものと自分が一体となる瞬間があって、それは時間にすると0.1秒とかそんなものだけど、その瞬間に色んなことを考えていて、過去・現在・未来がその短い瞬間に行き来している。それは大げさなものじゃなくて、日常にたくさん起きているこだということ。 周りのものと時の流れに自分が溶けて永劫になった一瞬、自分が自然の受け皿になる。 花が美しいと思ったその瞬間をそのまま切り取るということは、何気ないことに思えて実はとても深みのあることなんじゃないかということ…。 のっけから涙腺ゆるめになってたのに崩壊したよね。 私たちの生活は、最小単位の何かの集まりで、できてるということ。もっとも細やかな声に耳をかたむけること。それが時としてとても大切なんじゃないかと、改めて強く思ったのでした。 白井さんの感性やお人柄、とても素朴で繊細で、まるでご自身が道端に咲く野の花のような方でした。世の中にはこんな感性で生きておられる方がやっぱりいらっしゃるんだなあと思ったら、ぜんぜん泣く話じゃないのに、どうしても涙がとまらなくて(笑)たぶん変な子におもわれたことだろう。 アートや言葉にたずさわる人って、ほんとにナチュラルにシャーマンな方が多いね。でもそれって古代、縄文とか、歴史にも残らないような頃にはふつうにみんながしていたことなんだよねって、そう思います。 明石海人のうたのように生きがちな私ですが・・・(笑)今はそんな生き方を考え直す0地点、はざまタイムだなあと。このタイミングにお話聞けて、本当に幸せでした。 それはもういいんじゃない?原始のころの君はどうだったのさ?花のように生きなよと言われた気がした、満月前夜のお話会。 帰りに本郷町のいにしへを感じる某所と、そして大川の岸で柔らかい自然のエナジーにふんわりつつまれてきました。 きょうも、この大地とすべてのご縁に感謝。 Anna